半透明 1)

1)

 

霧雨の降る夜明けだった。
その温度をアスファルトを通して感じている。
なぜ僕はここで寝ているのだろう・・・。 思い出せない・・・。
早く起きて行かなければ・・・。体を起こそうとすると、左の脇腹あたりに鈍い痛みが走った。どうやら怪我をしているらしい。一体何が起こったんだ?混乱しかける中僕は、脇腹にゆっくりと広がる痛みを感じ、もう一度意識を失っていった・・・。

 

再び自分の呼吸が聴こえる。
パソコンを起動させ、途中で何かを点検するかのように、時間をかけて意識を戻す。少しずつ焦点が定まりながら、同時に聴覚も戻ってくる。ぼんやりと自分がいるのが白い部屋だとわかった。やっと自分の隣には妹の夏香、母さんがそばにいることを理解できた。もう雨は降っていない。
僕は体を起して何か言おうとするが、首の付け根に力が入らない・・・。

「そう、まだ起動出来る時ではないのだ。」

誰かが頭の中で、自分ではない誰かがしゃべっている。
頭の中の暗い端のほうに黒い猫が一匹いて、じっとこちらの様子をうかがうように見ていた。
そしてその黒猫が、突然しゃべりだす。

「初めましてと思うかもしれないが、それは当たっているとは言えない」

その猫は前足を丁寧に舐めている。

「君は突然猫がしゃべっているのを不思議に思っているのだろう?
今はピアノを弾く猫だっているのは知ってるかな?だから驚くことはなしにして、話を聞いてくれ。今君の頭の中に黒猫が出てきてしゃべっているということ自体が、メッセージの始まりなんだ。それに私は君のある”重要な起点”にいる。そこには流れるべき音を流し、ありもしない歌詞をつけて、君に捧ぐんだ。」

5秒ほどの沈黙が流れる。黒い猫の話し方には何かをもったいぶった様子はない。
ただ言葉をカジュアルに、大切に扱うように話している。

「君は今までうまくやってきた。仕事も出来、周りにも認められている。
さぞかしモテたことだろう。だが本当の君は、そんなものは欲しくなかったはずだ。
今まで君は自分だけで答えを出し、外の世界を広げることを一切せず、身に降りかかるものをただ漠然と受け入れてきた。私は"そんなためだけに"君を生かしておいたんじゃない」

沈黙が流れる。鼓動が次第に速くなる。

「乗り越えて、出て来れるかどうかなんてわからない。
いや、その結果が君の人生を素晴らしくし、単に無駄を省くだけなのかもしれない・・・。いずれにしても私が君の頭に現れたということで、君は少なくとも自分が分岐点にいるということに気づかなくてはならない。

君には私がどこのベランダにいるか、誰からおいしい缶詰をもらっているか、
赤い首輪のミミという白い雌猫を気にしていようが、その飼い主の頭が少なからずおかしかろうが、君にはそこから動くことなんて出来っこないんだ。 

君は"今だけ"消えた記憶の中に戻っていける。そこで君は残して来たものに、もう一度向かい合うことになるだろう。
しかし君は何をやり残したかなんて一切覚えていないし、それが本当に自分にとって大切なものかどうかなんてわからない」

沈黙が流れる。

「目をつむるんだ・・・。集中して奇麗に爪を研いで、爪の先まで神経を伸ばすんだ。
そうすればわかる。背中の神経を入れ替え、指先と心臓の脈をそろえるように意識して、肺に酸素が薄くなるのを味わいながらゆっくり意識を沈めていくんだ」

僕は頭の中の黒猫に言われることをずっと聞いていた。
なぜ猫がしゃべるのか質問することも出来ず、なぜ自分が突然頭の中に現れた黒猫にそんなことを言われなくてはならないのか解らずに。