彼女が家にやって来てもう2時間が過ぎている。彼女は深海魚の図鑑を借りて来たと言っていた。
グラスの氷が溶けるのも気付かずに集中して読む姿は、宝の地図が解読出来る手前のようだ。
僕はR&BとHIPHOPのリミックスアルバムを聴きながら、
アラブ人に言われた「セ ピカン」という仏語の意味と綴りを考えていた。

「辛い」という意味なのだろうか?中途半端なレスを空中にブラブラさせて音楽を聴いて遊んでいた。
そして遥の方を見てふと思う。稀にこういう人に出会う。同じ部族というか、話さなくても解るというか、話さない会話が成立するというか。
占い師じゃないけど、傷を負った人にしか解らない深さがあると思う。彼女のさびしい時にはテレパシーを受けるかもしれない。徐々に自分の彼女に対する思いが不思議なものになりつつある。
そんな遥は無機質な白い三人かけのソファの隅に追いやられているように座っていて、
ガラスと白い木のテーブルの前で細長く折れそうな足が組まれている。机の上の赤い透明のグラスの雫が今にも垂れようとしている。
僕は彼女が図鑑を読む横顔を、横目で見ていた。

僕らはあの夜に別れた橋の上で待ち合わせをして、オルセー美術館に行った。
彼女は黒いタートルネックに膝下まであるベロアの薄いベージュのスカートに黒タイツの格好をしてやって来た。
足元は茶色いぺたんこの革靴。そして髪の毛は後ろにカチっとピンをうまく使って止めている。
凛とした雰囲気なのにどこか可愛らしい。以前会った時より身長が高く感じた。
ニット素材のタートルネックは体のラインがよく解ってしまう。あまり見ないようにしないと・・・。
今日僕はパリに来て初めて絵を見に行く。観光らしいことはしたことがない。
毎日は職場との往復で、目にするのは地下鉄の乗り換えの案内ラインが緑からピンク、仕事が終わればピンクから緑に変わること、週に3回地下鉄の車両にいつも同じ音楽家が乗って来て演奏をし、帽子に1ユーロを入れてやる。

ベルサイユは漫画の世界にしか知らなかった。シャンゼリゼエッフェル塔は母の観光に付き合う事でしか行ったことがない。そこに仕事は無く、別に本は家や近所のカフェで読むことが出来る。
僕の住むパリは13区の中華街で、そこで初めてドリアンなるものを発見し、日本のインスタントラーメンを見つけ、名前の解らないどこまで煮ても苦い野菜を買って食べた。フランスの植民地だったベトナムから来た移民が作るフォーが1番美味しいレストランに週に何度か食べにいく。

僕らはメトロを乗り継ぎ、オルセーに着いた。普段は美術館の前を通り過ぎながら、並ぶ人を見るだけだったのに、今日は自分がその景色に溶けているのかと思うと、非現実的な感じがした。
美術館にの窓口に着くと、遥は
「deux pour adult.si'il vous plait」
と言った。僕は慌てて「いいよ」と言っても、「あたしが誘ったの」と言ってお金を受け取ろうとしない。
そして窓口の女性からお釣りを受け取りながら「merci」と、その女性に返した。
「次は僕が払うから」そう言うと、
彼女は「入りましょう」と、僕に笑顔を投げかける。
そして彼女は入口の方へ歩いて行き、僕も続いて中に入った。
遥は入口近くの絵には目もくれず、さっさと歩いて行く。3メートルくらい離れたあとで後ろを振り返り、
「じゃあ後でね」と言ってさらに先に進んで行った。。彼女は買い物をする時は1人派なのだろう。僕はいつもそうだ。
僕は何も言わず、入口近くの絵から鑑賞し始めた。
美術館には普段一人なら(絶対に)入らないということもあり、思わず飾られた絵の迫力に圧倒されてしまう。

☆入り口あたりからの絵の描写☆

セーヌ川沿いで一日中絵を描いている老人に、「絵は観るモノじゃなく、感じるモノなんだよ」と言われたのを思い出した。
老いた画伯には失礼かもしれないけど、最初彼が浮浪者なのか何なのか解らなかった。
近くで見ると絵画というものは、絵の具が立体的に重なっている。感心する半面、昔の絵の具は劣化して剥がれないのか?と心配もしてしまう。
もし状態を維持するために剥がして描きなおす機会があれば僕にも手伝わせて欲しい。
歩きながら色んな絵を見た。描かれた女の人はふくよかな人が多かった。そして表情や影の量からは優しさや悲しみの心情が伝わって来た。絵が話し掛けてくるとは思わなかった。
しばらく館内の絵画に心を震わせながら眺めて歩いていると、僕は衝撃的に1つの絵の前で固まってしまった。
僕は周りのやさしいタッチの絵画とは違う、ザラリとした独特な質感の絵に目を焼かれる。
その絵は直接僕の脳に訴え、五感を全て奪うように飾られていた。何か特別な条件ではない。周りと変わらない昔の絵の具で描かれたその絵の引力に視界が逆らえず、その絵が僕を支配するようだ。
(あぁ、絵描きが言っていたのはこういうことか)呆然としつつ納得した。
遥がやって来ていることさえに気づかなかった。遥は僕の後から話し出す。

「その絵はドラクロワっていう人が描いたの。フランス革命の時の女性が旗を持った絵を描いた人よ。ドラゴンアッシュのジャケットにもあったじゃない?聴いたことない?」

「この絵を見て自分の何かが反応する」僕は黙りこみ、見入ってしまう。

「ふぅん。何に反応するの?」

僕は興奮すると何も聞こえなくなる癖がある。遥に何か言われたが、それを故意ではなく無視をして真っ直ぐ入口の売店の方に向かって歩き、日本語のオルセー美術館のガイドブックを買った。そしてページをペラペラとめくりドラクロワを探しながら戻る。
見つけた。これはライオン狩りというのか・・・。

ロマン派ウジェーヌ・ドラクロワ北アフリカの薄暗い荒地にアラブ人が猛獣狩りに繰り出すが、捕らえるどころか引き連れた馬もろとも襲われて殺される。巨大でしなやかに吠えるライオン。

この絵はドラクロワの内面の一部なのかもしれない。
1タッチごとに細胞を塗り重ねられ、命が吹き込まれ、油断すると今にも牙をむきだしたライオンが飛び出して襲われそうに描かれている。
恐怖の対象、絶対的な強さ、その強さに憧れること、猛獣に立ち向かって倒すことは、自分の持つ恐怖に打ち勝つことであって、それは宗教的でもあり、強さに対する追及であったりすると思う。
自分の中に居るライオンは猛々しく、絶対に狩られない強さであってほしいと思う。
しかし自分のライオンを想像してみると、黄色と茶色のオーソドックスなものしか思い浮かばない。むしろキリンが思い浮かぶ。キリンなら大丈夫かもしれない。
彼は何かに対抗するように、時代を切り裂くように自身を描いていたに違いない。
その彼のライオン的想いがこの絵には表れている。そうやってガイドブックに書かれていない補足を足しておいた。
妄想にふけりながらガイドブックを読み進めていると、彼の過ごした時代には優しく柔らかい光が浮かぶような印象派という絵が流行っていて、その画家たちに影響を与えていたみたいだ。
ルノワールもその一人らしい。
僕は一人で居るときに、好きな写真のシルエットに自分が入り込む遊びをしている。
自分がその作品を造るイメージをする。作品の製作途中段階をイメージする。作者がどうしていいかわからなくなる瞬間、もしくはあっけなく作り上げてしまった感情などいろいろ想像する。
それは小さな虫にでも可能だ。何かを見て感じるという事は、その作品から作者の想いや念を感じ取ることだと思っている。
解釈はこうだ。この絵は素晴らしい。だからここに飾られる価値がある。
しかし1、彼は何故この絵を描いたのだろう?その質問に大切が集約されている。
しかし2、それを言葉に表すことは不可能であり、その代わりにこの絵に”具現化出来た”という、その時点を僕は認めている。
そしてこの絵には僕の気持ち、何かが共鳴している。歴史に生きた人たちを心の内で評価するのは、誰にも言わなければ何も咎められない。
彼はきっと周りを気にせず、いや、気にしたとしても自分を貫くように、自身を描いていたんだろう。
もし僕が彼と同じ時代に過ごし、もし同じ夕食のテーブルについたらどうなるのだろう?
きっと彼はテーブルの上にライオンや、旗を持つ女性の絵を並べるだろう。僕はテーブルの上に何を置くのだろう?
思い浮かばない⁂。最近出会ったグラフィックデザイナーが頭に浮かんだ。撮影のアシスタントとして参加した時、彼女はモデルとしてそこに居た。
専門学生時代に授業を無断で休んだ理由を聞かれ、「晴れていたから」と言ったらしい。
作品を一つコンクールに出したら西日本のベストに選ばれ、その後は休んでも何も言われなかったと言っていた。
彼女は「なんで晴れていて休んだらいけないんやろ?」と、京都弁の真顔で言っていた。背骨がアーティスト。変わった女の子だった。
遥はどうなのだろう?遥もそんな人たちと知り合う出会う機会があるのだろうか?
気がつくと知らない間に遥が僕の後ろにいてドキッとした。

「ねぇ、疲れちゃった。カフェに行きましょうよ」

近くで食事をすることにした。美術館にいる間ほとんどライオンの絵の前から動かなかった。僕らはオルセー美術館を出た。

美術館を出て歩いていると、

「どうだった?絵は楽しめたかしら?」と聞かれる。

「うん。彼と話し合ったよ。周りに合わせないことについて」

ドラクロワと?」

「そうだよ。時代の生ぬるい感じが、的を得ないんだってさ」

遥はまじまじと僕の顔を見るが、僕は前を向いて歩いた。何を思われてるか大体分かる。
日本を出る前から感じていた的を得ないという違和感。現代の社会にマーケティングとして売れるものに納得がいかない。本当に良いものは認められず、若い芽は埋もれていく。
美味しいところは頭のいい人や要領のいい人にもって行かれ、苦い部分は真面目な人が残さずに食べている。
世の中の見えないライオンに食い殺されているのかもしれない。
小学校の昼休みに机の給食と向かい合う同級生がいた。。彼はキュウリが食べれなかった。それをクラスの担任は許さなかった。
僕は彼を救うため、学校の給食トレーを1枚を隠し持っていた。そして担任がいない隙を見て空のトレーと友達のトレーをすり替え、僕はキュウリやグリンピースが載ったトレーを持って廊下を走った。たまに量が多すぎてポロポロこぼした。僕は他のクラスの子に給食を持って走るイメージを持たせることに成功した。そう考えながら歩いていると遥はずっと僕の方を見ていたらしく、

「まだ妄想しているの?」

と、聞いてくる。僕が困って下を向いていると、

「お好きなだけごどうぞ」と笑い、僕は嬉しそうな横顔を見ながら歩いた。そしてテラスの屋根が赤いカフェに着いた。適当な席に座り、僕はギャルソンにサンドイッチとディアボロマント、遥かエスプレッソと水を頼んだ。

「まさかあんなに一つの絵だけを見るなんて驚いたわ。よっぽど気が合ったのね」

「今まで絵画は食わず嫌なだけだったのかもしれない。他にもいいなっと思う絵はあったけど、ドラクロワの絵は頭から離れないな」

「あなたがフランス人と街中を走ってた横顔と同じ顔してたから、ちょっと嬉しかったな」

するとギャルソンが「 voila (どうぞ)」と言って、僕の前に緑色の炭酸水とサンドイッチ、遥の前にエスプレッソと水を置いて去っていった。愛想もなく、グラスとサンドイッチの皿を机に音を立てずにスッと置いて去って行った。舞台のシーンを変えるナレーションみたいだった。

遥に置かれた珈琲を見て思う。こっちで珈琲を頼むと信じられないほど凝縮された珈琲が出てくる。しかもカップが小さい。僕はエスプレッソを知らなかった。
初めて飲んだ時、ゴーヤを齧る罰ゲームを思い出すくらい暗い気持ちになった。ゴーヤが嫌いなわけじゃない。ただゴーヤと分かっていたら頼まなかっただけだ。
僕が頼んだディアボロマントはレモネードにミントが溶かしてある飲み物で、甘い炭酸とハッカが混ざっている。ミントはフランス語発音でマントと言う。
サンドイッチにはフランスパンにバターが塗られ、ハムとチーズが挟まれている。
僕が食べるものはいつも決まっている。好物と言えばそうだけど、食べ物にはこだわらない。

「きみは誰の絵が1番好きなの?」
遥が珈琲を一口飲むのを待ってからきいた。

「トロワイヨンて言う風景画家が好きよ。彼の絵には沢山の動物が描かれてるわ。ドラクロワとは違って、牛や羊の優しい絵を描くわ。きっと彼は草食系男子。あなたと見た目が同じ。因みにドラクロワはトロワイヨンの10個上よ。同じ時代に生きてるわ。でも私は絵を観るより自分の描いてる方が好きかな。なんていうか、砂時計が一気に落ちるみたいに、気付いたら時間が飛ばされているの」

ゴーヤ珈琲を一口飲んで彼女は続けて話す。

「あたしの両親は画家よ。小さい頃から絵とバレエとピアノを習ってたの。バレエをやりながら絵の個展も何度か開いたわ。両親はあたしを画家にしたかったらしいの。それでここに絵を描きに来たのだけど、画家って言ってもリフレッシュは必要じゃない?だから一度だけオペラ座にコッぺリアって言う作品のバレエを見に行ったの。するとそこに踊る人たちは自分自身が絵になってたの。まるで絵が動いているみたいでたまらなく美しくて、完璧に心を奪われたわ。そしたら次の日からそのことが頭から離れなくなって、もう一度バレエをしようと決めたわ。絵は好きだけど、あたしは絵よりも踊りで自分を表現したいって気付いたの」

隣を歩く彼女の良い姿勢や少し顎を引いて話す雰囲気も、そこから来ているのかと納得出来た。

「今はマレ地区にあるバレエ教室に通ってるわ。先週、そこにオペラ座のバレエ学校の先生がたまたま見に来ていて、あたしの踊りを見て「うちの学校で勉強する気はないか?」って言ってくれたの。それで一カ月後に試験を受ける事になったの。今は両親に内緒だけど、そこの学校に入ることが出来たらちゃんと話そうと思うの」

綺麗な姿勢で淡々と話す彼女には無駄なものが無かった。彼女からは美しさよりも強さを感じ、あぁ、これが凛としているということだと思った。彼女の言葉からは沢山の意思と季節を感じた。だから僕は彼女と話しているうちに、だんだん苦しくなる。
僕は彼女がエスプレッソに角砂糖を一つ入れてスプーンでかき混ぜている様子を眺め、今の置かれている僕とディアボロを飲んで、遥の此処に居る理由を理解した。
僕とは違う。希望や挑戦を持つ人に、迷った奴の言葉なんてかけれない。そういった人には弱さを見せれない。邪魔になるだけだ。

「そうなんだ。凄いよ。遥なら絶対受かる。君は不思議な魅力を持っているし、実は君がバレエをやっているんじゃないかなって思ってた。背骨がバレリーナなんだよ。チャンスは生かさなくちゃね」

僕は笑いながら視線を地面に落として話した。少し棒になっていたかもしれない。

 

「そうだ、明日は早番だし、僕はそろそろ帰ろうかな」
逃げたかった。急に独りで居る時のことを思い出す。
病院から帰った日のこと。
着ているパーカーを床に投げ脱ぎ捨て、少しの間放心して思いなおして棚の上に畳んで置く。
冷蔵庫の音が部屋に響き渡り、窓の外からわらび餅を売る声、車や人の歩く音、ゴウゴウ言う飛行機、鳥のさえずりがカーテンの隙間から順番に並んで、たまに重なりながら入って来ていた日のこと。
梅雨明けの夕方、恐ろしく空白だった。「逃げたい」何度か口からそうこぼれた時、
半分の僕は空虚な洞窟から出ることが出来、感情を言葉に綴ることが許される。
僕の半分は青いラグの上に立っている。僕の半分は空気に青い文字を綴る。
しかし何も書かれることはない。ただ好きなコトや辛いコトを交互に僕の頭に浮かべて涙を流す。しばらくすると半分は洞窟に戻る。

「いいわ。出ましょう」

ギャルソンを呼んで会計を済ませ、机に50セントを置いて席を立った。背中に機械的な「メルシーオヴワー」を聞きながらカフェを出た。
これ以上彼女を嫌な気持ちをさせないような受け答えできる自信が無かった。
嫉妬の感情が頭を出してしまう前にこの場を切り上げてしまいたかった。
カフェを出てしばらく歩いていた。遥は黙っている。
10メートルくらいだろうか、彼女は歩きながら頭の中で荷物をまとめ、整理していたのだろうか。

「あなたは逃げるのね」突然彼女が話し出す。

「え?」

心臓を掴まれた気がした。僕は半分で笑顔と言葉を絞り出して聞き返す。

「逃げてないよ・・・どういうこと?」

「あたしはあなたの逃げる先を知りたいわ」

彼女は僕を見ずに、湖の水面をスラスラとアメンボみたいに話す。

その言葉には一定のリズムがあり、単調で流れそうなのに、僕の深い部分に到達して離れない。

夢を追う人の話は聞きたくなかった。自分でも何故だか解っている。そういう話を聞くと何もない自分は惨めに暗い崖へと落とされてしまう。

通りには観光客を含めてたくさんの人がいる。その景色が映画の早送りのように内容がうまく入ってこない。

相手に自分の影が映らないように笑いながら考える。

僕のやりたい事。その先に広がる事。僕には自分が本当に望むモノが解っていない。

この国に居る理由が見つからない。

「あたしがバレエを選ぶのは、思うように生きたいから。そのテストには本気で受かりに行くわ」

背中に汗が噴き出すのを感じ、防衛本能が働いて自然に口が開く。

「いいんじゃない?僕は別にここで何かを残そうとも思っていないし、君にはここに居る理由があって羨ましいな」
(残したい。自分を試して、何かを証明したい)心と言葉が離れていく。遥の顔に笑顔は見えない。

「ふぅん。それってここに来れば見つかるモノなのかしら?あたしはそんなの日本に居ても見つかる気がしてるわ。あなたってやっぱり理由が大切なのね。理由のために生きているの?それって本気じゃない人の話よ。全力な時には理由じゃなくて感情論なのよ」

遥は台所でキャベツをザクザクと音を立てながら切るように話す。
木人形がある。
規則正しい温度を持つ操り人形。その人形に僕の顔が貼ってある。

「何度も言うように、アナタはあたしの想像を超えたのよ。みんな理由ばかり。皆がこうするからとか、何かのブランドに就職して選ばれることがステータスだとか。あたしの失望はそこなの。その人がブランドじゃないわ。けどアナタは理由じゃないの。衝撃的なのよ。フランス人と街中を走る、会ったばかりだけどあたしにはわかるの。あなたは海外の男性に負けちゃう情けない男の子じゃない。あたしの感は正しいのよ」

淡々と話す中に、彼女の気持ちが少しずつ高まっていくのを感じた。

日本で僕に期待し続けた母親、周りの人間に潰された時のことを思い出した。

僕がここに来たのは過去の自分を乗り越えたいからだ。

誰も最初から木人形で居る訳じゃない。しかし僕はこの気持ちを彼女に伝えることが出来ない。

今僕の居る現実とあまりにもかけ離れた想いを口から出すことは、より自分を惨めにするだけと解っているからだ。

だから何も答えられない。答えたらもう戻れない気がする。

僕はここがどこか解らなくなる。

僕の持っていた夢や内面、母や周りの人間から受けた期待と愛情の深さが憎しみに変わる瞬間を僕は知っている。

仲間に僕がフランスに行くというと、「何しに行くの?」と聞き返してきた。

言いたいことは解る。

「じゃあお前は何しにこの国で大学に行くの?」と聞けなかった。

もし聞いたら、「良い就職先を探すため」という鉄板の回答が待っている。

僕は思う。

夢よりも良い就職を取った方が正しいというのなら、

夢を追うより仕事をしてお金を多く稼ぐことが立派であると言うのなら、

大学を卒業して内定の先にある月給20万と年2回支給されるボーナスに純粋な蒼さを売ってしまうことを肯定してしまえば、

僕はここに居る自分の存在を消してしまう。

自分は未来は自分で選ぶと決めて日本を出たのに結果がない。

僕はここに来て自分の無力さ、途方に暮れる現実を味わい、弱さを受け入れるのを拒否する毎日を飲まされていた。

遥との差、お互いの時計の針の動く差、その差が悔しくて情けなくて、泣きそうになるのを何とか堪えた。僕は”言い返す”

「一方的に意見を押し付ける癖が君にはあるようだね。
僕には僕の事情がある。僕は仕事もしているし、君みたいに仕送りをされている学生じゃないんだ。自立しながらだと立場も違うのかもしれない」

(立場なんて関係ない。今その時に何を想って、何を通して想いを投影させるかが大切なんだ・・・)

「ねぇ、今のあなたってカッコ悪いわ。本当はそんなごまかしを言う人じゃないのに・・・。ねぇ、ドラクロワと何を話したって言うの?あなたの言う的を得る得ないって、周りに合わせて生きていくことなの?ここはメトロポリタンでアーティストの集まる場所なのよ?ブランドを立ち上げる人が夢を持って集まる場所なのよ。本気で生きてみなさいよ。あたしだって、本当はやりたいことなんて解ってないし、不安でたまらないのよ!!」

彼女は叫んだ。彼女の目から涙がこぼれていた。通行人が僕らを見ている。しまったと思った。また人を傷つけた。しかも本心じゃない言葉で・・・。

遥は涙を手で拭いて、そして大きく深呼吸をした。

「押しつけて悪かったわね。謝るわ。もう勝手にしなさいよ」

そう言って彼女の綺麗な泣き顔は消え、歩く後ろ姿を見せながら僕から離れていく。

声が出ない。何を言っていいのか解らない。

今さら思うことではないかもしれないが、立ちすくんだ。

呆然としながら彼女が離れているのを眺めた。

目だけを動かし、遠くから人が自分を見ていることに気がついた。僕は下唇を噛んで下を見ている。

黒猫は言う。

「乗リ越エレナイ。キミニハムリ」

「うるせぇ!」僕は知らぬ間に、大きな声で叫んでいた。

通行人はギョッと僕の方を見て、僕が彼らを見ると彼らは目を逸らす。

僕はここに居られなくなり、遥と反対の駅に向かって歩き出した。

黒猫はあくびをして、ひんやりしていそうな床で、ペタリと横になって眠っていた。

帰りの途中、地下鉄の中、歩いていても表情を持てなかった。よく覚えていない。

木人形のまま家に着いた。

扉を開けて家に入ると靴を脱ぎ捨て、上着を全て床に落として半裸でソファに座り、飲みかけの赤ワインをグラスに注いだ。

グラスを手に取り一口飲むと、渋みが喉をスッと通り過ぎる。

日本に居た頃、自分のせいで最後の試合に負けたことを思い出した。

チームの監督からは、「お前のせいで負けた」、そして親に「恥さらし」と言われた。

どうだっていい。遥からはもう連絡は来ないだろう。

僕は単調な毎日の空白に耐える準備をしていた。

タバコに火をつけて部屋の空白と、その中に立ち上り揺れる煙を眺めていた。

しばらく頭を抱えて居た。

そうしていると、電話がかかってきた。音が鳴る電話を眺める。出たくなかった。

しかし10コール無視しても鳴り止まない電話から、何かあったのか?と思い受話器を取った。

「allo」(もしもし)

「youto,on a decide ton verdoring. dans un mois. Ca va?」

(君のスタイリスト試験を1ヶ月後に決めたいのだけど、どうかな?)と上司から言われた。

「mais...je rentre au japon dans un mois....」

(え・・・後1カ月で日本に帰るのに、何でスタイリストの試験があるのですか?)

僕は聞き返した。しかし上司のファブリスは笑い、声で祝福をしている。
突然過ぎて、うまく頭に入らない。
試験は上司から見てアシスタントがスタイリストになる資格があると思った時、突然テスト日を告げることになっている。電話を切った後、やっと理解できた。
僕はスタイリストになる資格を得た・・・。日本に帰るのに。
悲しかったはずなのに急にテンションを上げられ、どうしていいかわからずソファに座ったり立ったりを何度も繰り返し、窓の外を見て遥のことを考え、絶対に負けられない。そう思った。

職場の同僚は地方から何人も来ていて、その多くは2カ月でクビになっていた。知らない間に居なくなる。
その度、「なぜ彼女はクビになったのか?」と聞くと、「eh bahan…parce qu'elle est saloppe」(彼女は馬鹿な事をしたのさ)
と言われる。フランス語を何度も聞き返す僕に、説明が面倒な時にはこうやって長文は省かれる。たまにありがたくない。
しかしこの時はどちらにも感じなかった。仲間が居なくなる理由を僕は追及しなかった。もともとそういう場面、高校の頃の部活で誰かが辞める時に理由を聞いても引き止めたことはなかった。
どんなにその子が精神的に弱って辞めても、クビにされても、理由なんて関係ない。ただ明日からそいつは居ない。それだけだ。次は僕かもしれないと思って語学をさらに必死に勉強するだけだった。僕が働く美容院はフランスでも屈指の有名店だった。サロンは2階建、スタッフは30人いる。国籍はフランス、ドイツ、スペイン、イタリア、イギリス、ポルトガルスウェーデン、マレーシア、中国、日本、パキスタン、後は覚えていない。ミーティングはほぼ英語。
色んな人が居た。フランス語の下手なドイツ人のジャネットは白髪のロングヘアーで普段はとても温厚な女性だった。サロンの皆でシャンゼリゼのクラブに行った時、彼女と職場のスペイン人の彼氏は先に着いていて、彼女はポールダンスで使う棒を片手を伸ばして掴んで両足を棒の下にくっつけて、そこを軸にしてクルクル回りながら雄たけびを上げていた。
仕事中キレると英語になるボスが、「彼女、あんな風だったんだね・・・」と呟いたのを覚えている。職場の6割がバイセクシャルだった。たまに変な汗をかく。男から男同士の恋愛相談を受け、ベッドシーンを詳しく話されたりアプローチされたり危険がたくさんあった。しかし僕は自分を守り抜いたことを断言する。
僕はいつもフランス人のベンとフランクというスタイリストにいつも挟まれて冷やかされていた。彼らはELLEやVOGUEなどのファッション誌に載ることも多かった。フランクは突然営業中にズボンのチャックを開けて、お客さんの見えないところで自分のモノを出して僕に見せたり、僕がシャンプーしている女の子が可愛いと、シャンプーをされている彼女の頬と口にキスをした。ベンは親子で来ている女の子が可愛いとその母親に、「娘さんと付き合ってもいいですか?」と片膝を床につけて聞いていた。
週3でアサヒビールを買いに行かされた。サロンの外でいろんなフランス人と会ったがフランス人が全員こんな風ではなかった。
ここで働く人は変わっているか、ゲイ、レズ、バイ、もしくは表面的で冷たい奴かどれかだった。

次の日から僕の思考は加速する。
僕は片っ端から綺麗な子を選び抜いてモデルに選んだ。試験は12人のロングからショート、ボブのカットをし、それに音楽と衣装メイクを施してショー形式にする。ショーが終わった後に上司3人にカットを見られる。
上司3人のカット料金は約一万円。僕は何人ものスタイリストがデビューしていくのを見ていた。華やかにデビューしたスタイリスト。上司が見守る中、本当に良いショーというのは拍手が鳴りやまない。しかし逆の場合がヤバい。誰も笑っていない。感性が認められないのだ。
僕はその両方の時に居合わせて、ショーに魅了されたオーディエンスがスタイリストに集まって頬にキスをしたり、スタイリストが絶賛、称賛される場面、それとは正反対に苦笑いを隠した仲間内が近寄って行く気まずい雰囲気を味わった。
とにかく僕は後者になりたくない。その恐怖もあり、仲間を集める為にメイクを出来る人を探した。ブノワの電話を思い出す。すぐに日本から来たヘアメイクの子に会った。
直樹という日本の男の子。直樹は家もなくフランス語もしゃべれず、今は友達の家に泊まっているらしい。彼は仕事を辞めてメイクの学校に行くためにフランスに来た。僕がメイクを依頼した時はすごく喜んでいた。

後はモデルだ。モデルは顔と体形が命。撮影の時に出会った京都弁のグラフィックデザイナーを思い出す。その子に電話をかけ、無理やり予定を開けてもらう代わりに酒をおごる約束をした。仕方ない。
毎日走りまわり、仕事が終わってまっすぐ帰ることなんて出来なかった。今までの生活とは打って変わった。僕は仕事に対して日本に帰らなければいけない立場にあることをずっと理解していたし、先は無い物だと思っていた。試験を受けるなんて夢のまた夢だった。試験に合格してもスタイリストとして働ける時間はないけど、それでもスタイリストになる資格があると認められることが嬉しくて仕方ない。しかし、チャンスは逆にすれば失望に変わる。今度はしくじる訳にいかない。僕は毎晩ソワレに出かけ人脈を辿り、サロンを辞めてヘアメイクに転向したカラーリストの僕に気がありそうなヴァンソンとも会った。彼は何人か仲の良い顔立ちの整ったモデルを紹介してくれた。笑顔を振りまきながら必死に走りまわり、そして一週間後にモデル探しは後1人というところまで来ていた。
服飾の助っ人も見つかり、条件は整い始めていた。日本人のリナという女の子だ。
徐々に時計の針は動き出す。僕らは連日連夜、遅くまで僕の家に集まり、酒を飲みながらモデルの顔写真を並べ、ネットでショーに使う音楽を探し、モデルに着せる服のデッサンをし、それに合うメイクや髪形も含めて話し合った。素人たちの意見を集約すると、絶対に不可能な髪形を提案してくれる。僕は人形で何度もスタイルを作っては崩した。
「髪の毛で虫を表現できないのか?」 そう直樹に言われ考えるが、僕は虫が苦手だし、虫の種類が思いつかない。直樹はいつも真面目に話す。
そしてリナが良いと言う服装のデザインを僕が「微妙」と言うと、「じゃあやらない」と言われ、僕も「勝手にしろ」と言い、僕がリナのミシンを使った。その間リナは外に出てタバコをふかし、部屋に戻りテレビをつけ酒を飲み始める。彼女はハイネケンとコーラを混ぜて飲んで、机の上のスライスされたパンにカマンベールチーズを乗せて食べていた。
そんな時直樹は我関せずと自分の髭を入念に剃り、自分のメイクボックスを開いて顔に髪がかからない様にカチッとピンで後ろに固定し、鏡の前に座って自分の顔にファンデーションを荒く塗り始める。今時使わない深紅の口紅を自分の唇に引き、目から化粧を始める。猫が踊るミュージカルに出演するような目頭、目尻に強くアイラインを引き、チークには青とオレンジでグラデーションを造っていた。僕がリナのミシンと死闘を休戦した瞬間横を見ると、直樹の顔はもう猫の歌舞伎になっていた。僕は始め何度か飲みかけたコーラを吹き、リナはタバコにむせて目を丸くしていた。そうやって3人が結束していく。
ある日僕が部屋に入ると、リナと直樹がキスをしていた。どうやら直樹はリナの家に転がり込んだようだ。僕は彼らと目を合わせず、「30分隣の部屋貸してやるよ」と言うと、リナは僕を睨んで奥の部屋に行き、直樹は下を向いてメイクのデッサンを始めた。その時僕の出した声には、「お前ら抜きでやってもいい」、という怒りを隠したトーンが含まれていたのだろう。別に隣で誰が何をしようが関係ない。ただ仕事をしないなら居てほしくなかった。そして案の定、僕の意地で作った服はただの手を加えたぼろ布になり、隣の部屋に居るリナに僕の処女作を見せると、まんざらでもなさそうな声で、「いいわね」と言いながら、僕にもう一度布の買い出しを指示した。僕らはお互い強い言葉で会話しながらも普通だった。こういう似たようなやり取りを既にお互いの立場を変えて何度もしていた。今回のショーは自分の経歴に残る。仕事以外の時、モノづくりの瞬間に何を考えているとか、僕らはよく酒を飲んで笑いながらも真剣に話し合った。僕は服の作業の合間にカット練習をした。1ミリもずらさないように。僕らは自分にも、誰に対しても妥協するつもりがなかった。気付くと店に朝の3時まで残って同じ人形を切っていることがあった。外界を遮断して、誰も思いつかないようなスタイルだけを考えた。外は闇に包まれ、2階建ての職場の窓から見える景色に街灯以外誰も居なかった。見返したかった。本気で生きているのかと言われて、僕は前から必死だったはずだった。しかし今自分ががむしゃらにやっている事さえこの先20年後から見ると、ソレが未来に繋がっていたことかどうかなんて分からないだろう。しかし今過ごす時間に不安はない。空虚な洞窟の中を立ち止まることなく歩いている。怖いのは、洞窟の中で立ち止まってしまう事だ。立ち止まってしまうと闇は青みを帯び始め、それに呑みこまれると個は完全な影にされ、一寸の希望さえも入らない闇に閉じ込められ、思考は溺れてしまう。しかし今の僕には闇を歩くことで自分の芸術に触れている。命の色を確認している。午前3時の店で一人片づけをしながらそう思い、テストの日がやって来た。それは完璧な7月の初夏だった。