京都 奈良 report 2020.Sep

昔から人の不幸が流れてくるニュースや それらに対して関心を示す人々に違和感があり、人の痛みを感じない異様な光景は人を傷つけてきた。

日本社会はなぜこんなに中身がなく、なぜ電車で会社の上司であろう年代のスーツを着た中年は老人に席を譲らないのか?

なぜ自分の会社が生産する無駄な商品を止めないのか?

なぜ自分でやりたいことをはじめようと独立したはずの経営者に希望の色が消え、悲壮感が映るのか?

長年思っていた疑問は京都・奈良に解くカギがあった。

 

京都・奈良には日本人のルーツがある。

疫病を克服するために作られた東寺の壁には筋が5本あり、最高格式がここにあることを表している。

 

境内にある小子房には、

修行のため高野山に向かう空海不動明王が見送り、その足跡に蓮の花が咲く蓮華門がある。旅立つ空海の人を救うための向学に対する伝説と格式がここに伝えられている。

小子房の48の襖絵には大胆さと繊細さを表す、宮本武蔵の描いた鷹を見本に描かれた鷹の力強さと虫の羽まで描ける ”異様にまでの” 繊細な水墨画が描かれている。

 

天皇をお迎えしてもてなす小子房の奥の部屋「勅使の間」、そこまでたどり着くのに5つの部屋があり、その仕切りの襖の芸術性の高さとその襖一枚で家が買える値段という格式に囲まれた6室の豪華さは、高い叡智を敬う過去の人たちの人柄が感じ取れる。

現代の人たちは国宝の保存方法に金をかけず、国宝はゆっくりと酸化していく。

最高のテクノロジーをここに使おうとしないのだ。

 

学力が貧富の差に繋がることを、いつから感じれなくなってきたのか?

昔の学力は知識だけではなくクリエイティブがあった。

モノをたやすく与えられる者は考える機会を失い、与えようとしない者は自分で作る努力を失った。

なぜ学力がなくなってしまったのか?

美しい景色はSNSで見ることが出来ても、儚さや悲しみや同情は自分の内面はそこに映ることはない。

そうこうしているうちに中国から華僑が日本にやって来て金を儲けている。

ここで一つの問いが生まれる。

なぜ華僑は金儲けを理解し、日本のGDPが最高なのに関わらず、どうして日本人は金儲けが下手なのか?

一つの考察として、

中国にはアヘンにより植民地にされたが歴史教育は支配されておらず、自国に対する肯定が(嫌になるほど)あり、自国を愛している。しかし歴史教育を植民地化された日本は祖先の努力を知らずにいるため、自国を愛せないのではないだろうか。

戦争を肯定するつもりはない。

日本は戦争で痛めつけられたあと、世界に「負けました」と言わされ、

日本がアジアのために戦った大東亜戦争日本兵がすばらしかったことを伝えることを禁じられて、誇りと自己効力感を奪われてしまった。

 

 

今回の修学旅行中に寺院を見学する際、

「気配りと気遣いの学問をしているから言わせないで」という言葉を頂いた。

経営者クラスの人が、ここを見学する他の観光客の人の気が読めないことが伝わった。

 

経営の父と呼ばれるドラッカーが日本の空間美における美術を高く認めていること、「経営センスは美的センス」ということ。

芸術を知ること、人の美意識を知ることは重なる。行動の美学や作法の発達がそこにあるのではないだろうか?

気の学問において、景気は “街ゆく人の気持ち” である。

景気が良い街には人から優れた芸術が生まれ続け、人の気持ちは高い状態が保たれる。

芸術性の高い思考で生まれた政治は優しく美しいものである。

 

廣目天は24時間いつでもあなたを監視しており、その足元に踏み潰しているのは邪気である。毘沙門天如意輪観音にもそれぞれの意味がある。

それぞれの仏像は真言も異なり、何を祈って作られるのか、目的が違う。

疫病が流行れば薬師如来を置き、そこに人が集まりその薬師如来を置いたという精神性・信仰心から向学心が生まれ学部が出来、医学が発達する。

組織経営もその時代において利益を出すために、企業内に必要な学部を置くように、その時代に必要な精神性の組織デザインが必要ではないのだろうか?

 

三十三間堂には、江戸時代まで遡った1024人の祖先がいる。

ここにいる1024人の中に自分が会いたかった人がいる。

その人に唱える真言と祈りは届くのだろうか?

その人はここに来た自身を見つめて何を思うのだろう。

「処世術と金儲けばかりで、あなたたちの生き方は、何をやっているのかわからない」と言われていないだろうか?

「テクノロジーの未熟さ、向学心の低さ、もっとやれるよ」という叱咤をされてないだろうか?

経世済民を日常化できず、経典を学んで人を救う事を考えが足らないことを悲しんでいるだろうか。

 

“あをによし 寧楽の京師は咲く花の にほふがごとく 今盛りなり”

 

という高度な俳句を詠んだのは奈良の街に暮らす人である。

法律である憲法はむかし現代ほど複雑ではなかった。

つまり1500年前に詠まれたヒットソングが現代でも愛されている事実、

芸術的感性があり人の心を震わし潤わせることが出来る感性の人々は、ルールが細かくなくても和をもつことが出来、説明書や設計書、クレーンや釘がなくても、五重塔東大寺を造れた。

 

自分の生業は美容業で、髪の毛のカットを教えているのだがすぐに諦める子が多い。

あんなにすごい建築物を創れる才能があったのに、ボブ(ヘアカット技術の種類)ごときに心を折られる。

YouTubeを見て正解を知れる便利な世の中なのだが、自分で考える力や感じる力を失った。退化してしまったのだ。

 

三十三間堂の1024人の祖先は足りないモノを自分で工夫して補い、努力をして必死に命をつなげてくれたのだが、現代、 “考える必要” も “感じる必要” もなくなった日本の経済風景では人間は共食いの鬼になり下がり、熱々の釜戸が近くに見える。

人々が一日一食で重労働をしていた昔から、便利で豊かな世の中に “適応した 自然の摂理”がある。

進化と退化は螺旋状に進んでいる。

ただこの100年間、人間は下降気味だと理解すべきだ。

 

いま世の中の若者はやりたいことをやってない。

やりたいことは、お金がたくさんもらえて休みが多く、家でクーラーをかけて、コーラを飲んで良い家や車を買う事ではない。

SNSで格差のない低い者の発信が流れ、その間に読まされる広告に時間を奪われ自由を失っている。

自分と向き合う時間は減少し、病気も不幸もすべては内側からくるもので、全ては意のままであり、夢をかなえることも意のままという真理に近づくことが出来ない。

 

昔の人たちの精神性からくる向学心、建築技術は軍事技術に繋がった。

ロシアに勝ったテクノロジーゼロ戦、戦艦ヤマトを今の僕たちには造れない。

今の時代は聖徳太子のような頭脳と、あとは玉虫厨子のように命をほかの動物にあげる犠牲心はない。

 

日本人は、やりたいことがやれる、思うように生きることが出来る、繊細であり強い絵も描けるし、クレーンが無くても五重塔と大仏の作り方も知っている。酸性雨なんて降らせることもない、そんな智慧や文化、次世代に繋ぐ精神を取り戻し、未来の人を救うべきではないか。