京都 奈良 report 2020.Sep

昔から人の不幸が流れてくるニュースや それらに対して関心を示す人々に違和感があり、人の痛みを感じない異様な光景は人を傷つけてきた。

日本社会はなぜこんなに中身がなく、なぜ電車で会社の上司であろう年代のスーツを着た中年は老人に席を譲らないのか?

なぜ自分の会社が生産する無駄な商品を止めないのか?

なぜ自分でやりたいことをはじめようと独立したはずの経営者に希望の色が消え、悲壮感が映るのか?

長年思っていた疑問は京都・奈良に解くカギがあった。

 

京都・奈良には日本人のルーツがある。

疫病を克服するために作られた東寺の壁には筋が5本あり、最高格式がここにあることを表している。

 

境内にある小子房には、

修行のため高野山に向かう空海不動明王が見送り、その足跡に蓮の花が咲く蓮華門がある。旅立つ空海の人を救うための向学に対する伝説と格式がここに伝えられている。

小子房の48の襖絵には大胆さと繊細さを表す、宮本武蔵の描いた鷹を見本に描かれた鷹の力強さと虫の羽まで描ける ”異様にまでの” 繊細な水墨画が描かれている。

 

天皇をお迎えしてもてなす小子房の奥の部屋「勅使の間」、そこまでたどり着くのに5つの部屋があり、その仕切りの襖の芸術性の高さとその襖一枚で家が買える値段という格式に囲まれた6室の豪華さは、高い叡智を敬う過去の人たちの人柄が感じ取れる。

現代の人たちは国宝の保存方法に金をかけず、国宝はゆっくりと酸化していく。

最高のテクノロジーをここに使おうとしないのだ。

 

学力が貧富の差に繋がることを、いつから感じれなくなってきたのか?

昔の学力は知識だけではなくクリエイティブがあった。

モノをたやすく与えられる者は考える機会を失い、与えようとしない者は自分で作る努力を失った。

なぜ学力がなくなってしまったのか?

美しい景色はSNSで見ることが出来ても、儚さや悲しみや同情は自分の内面はそこに映ることはない。

そうこうしているうちに中国から華僑が日本にやって来て金を儲けている。

ここで一つの問いが生まれる。

なぜ華僑は金儲けを理解し、日本のGDPが最高なのに関わらず、どうして日本人は金儲けが下手なのか?

一つの考察として、

中国にはアヘンにより植民地にされたが歴史教育は支配されておらず、自国に対する肯定が(嫌になるほど)あり、自国を愛している。しかし歴史教育を植民地化された日本は祖先の努力を知らずにいるため、自国を愛せないのではないだろうか。

戦争を肯定するつもりはない。

日本は戦争で痛めつけられたあと、世界に「負けました」と言わされ、

日本がアジアのために戦った大東亜戦争日本兵がすばらしかったことを伝えることを禁じられて、誇りと自己効力感を奪われてしまった。

 

 

今回の修学旅行中に寺院を見学する際、

「気配りと気遣いの学問をしているから言わせないで」という言葉を頂いた。

経営者クラスの人が、ここを見学する他の観光客の人の気が読めないことが伝わった。

 

経営の父と呼ばれるドラッカーが日本の空間美における美術を高く認めていること、「経営センスは美的センス」ということ。

芸術を知ること、人の美意識を知ることは重なる。行動の美学や作法の発達がそこにあるのではないだろうか?

気の学問において、景気は “街ゆく人の気持ち” である。

景気が良い街には人から優れた芸術が生まれ続け、人の気持ちは高い状態が保たれる。

芸術性の高い思考で生まれた政治は優しく美しいものである。

 

廣目天は24時間いつでもあなたを監視しており、その足元に踏み潰しているのは邪気である。毘沙門天如意輪観音にもそれぞれの意味がある。

それぞれの仏像は真言も異なり、何を祈って作られるのか、目的が違う。

疫病が流行れば薬師如来を置き、そこに人が集まりその薬師如来を置いたという精神性・信仰心から向学心が生まれ学部が出来、医学が発達する。

組織経営もその時代において利益を出すために、企業内に必要な学部を置くように、その時代に必要な精神性の組織デザインが必要ではないのだろうか?

 

三十三間堂には、江戸時代まで遡った1024人の祖先がいる。

ここにいる1024人の中に自分が会いたかった人がいる。

その人に唱える真言と祈りは届くのだろうか?

その人はここに来た自身を見つめて何を思うのだろう。

「処世術と金儲けばかりで、あなたたちの生き方は、何をやっているのかわからない」と言われていないだろうか?

「テクノロジーの未熟さ、向学心の低さ、もっとやれるよ」という叱咤をされてないだろうか?

経世済民を日常化できず、経典を学んで人を救う事を考えが足らないことを悲しんでいるだろうか。

 

“あをによし 寧楽の京師は咲く花の にほふがごとく 今盛りなり”

 

という高度な俳句を詠んだのは奈良の街に暮らす人である。

法律である憲法はむかし現代ほど複雑ではなかった。

つまり1500年前に詠まれたヒットソングが現代でも愛されている事実、

芸術的感性があり人の心を震わし潤わせることが出来る感性の人々は、ルールが細かくなくても和をもつことが出来、説明書や設計書、クレーンや釘がなくても、五重塔東大寺を造れた。

 

自分の生業は美容業で、髪の毛のカットを教えているのだがすぐに諦める子が多い。

あんなにすごい建築物を創れる才能があったのに、ボブ(ヘアカット技術の種類)ごときに心を折られる。

YouTubeを見て正解を知れる便利な世の中なのだが、自分で考える力や感じる力を失った。退化してしまったのだ。

 

三十三間堂の1024人の祖先は足りないモノを自分で工夫して補い、努力をして必死に命をつなげてくれたのだが、現代、 “考える必要” も “感じる必要” もなくなった日本の経済風景では人間は共食いの鬼になり下がり、熱々の釜戸が近くに見える。

人々が一日一食で重労働をしていた昔から、便利で豊かな世の中に “適応した 自然の摂理”がある。

進化と退化は螺旋状に進んでいる。

ただこの100年間、人間は下降気味だと理解すべきだ。

 

いま世の中の若者はやりたいことをやってない。

やりたいことは、お金がたくさんもらえて休みが多く、家でクーラーをかけて、コーラを飲んで良い家や車を買う事ではない。

SNSで格差のない低い者の発信が流れ、その間に読まされる広告に時間を奪われ自由を失っている。

自分と向き合う時間は減少し、病気も不幸もすべては内側からくるもので、全ては意のままであり、夢をかなえることも意のままという真理に近づくことが出来ない。

 

昔の人たちの精神性からくる向学心、建築技術は軍事技術に繋がった。

ロシアに勝ったテクノロジーゼロ戦、戦艦ヤマトを今の僕たちには造れない。

今の時代は聖徳太子のような頭脳と、あとは玉虫厨子のように命をほかの動物にあげる犠牲心はない。

 

日本人は、やりたいことがやれる、思うように生きることが出来る、繊細であり強い絵も描けるし、クレーンが無くても五重塔と大仏の作り方も知っている。酸性雨なんて降らせることもない、そんな智慧や文化、次世代に繋ぐ精神を取り戻し、未来の人を救うべきではないか。

 

 

part

 

 

 

 

文字を落としている途中にしかチャンスはないと思った

日常の作業が僕を救ってくれるとは思えなかった

 

言葉の意味は、経験した闇の深さに。

語彙の広さは、心が移動した距離と触れ合った心の数に。

自分の夢が儚く、もろく綺麗なものであるならば、心が枯れることはないと信じている。

 

私たちは私たちを必要とする人を必要としてる(toni&guy 理念)

 

たまに強がる人の色気に見とれてしまう

 

二人の自分を愛してさえすれば、闇なんて怖くない

 

現実と夢の間の午前3時。

熱い想いを語るやつと目が合ったら、もう半分の俺だった。

 

文章は”とりとめのない”を書く訳でもある。

なぜならと"サラサラと"書くつもりもない。

 

 

朝起きると、違う生き物の足跡を辿るように自分の足跡をみている。

洗い物をするときに、シンクに残った食べ物の後はきっとここで何か食事をしたのだろう、一度スイッチが入ってしまう。

 

食後のモノを片付ける時、生き延びた実感がする。

すれ違う雑踏からグラスを合わせるような笑い声。

目をあげて歩く。

 

「ねぇ、何を想ってるの? 僕は毎日のたわいもない、朝にカーテンを開けたり、

君の横顔を見て、時間が光に包まれることが幸せなんだ。

君にありがとうが言えなかったけど、言葉じゃなかったのかもしれないね。」

 あの鳥は僕が呼吸を止めても 気持ち良さそうに空を飛んでいるんだろうな。

 

 

誰にも見られない月になりたい。

夜に鳴く、闇の色した黒猫が、 月夜の光をうらめしく、硝子の涙も頬を垂れ。

 

 

ジンライムの中を泳ぐ魚になりたい。

 

悲しい音色と重なるなんて幸せじゃない?

 

夜景を見て自分の空洞が共鳴したり、

月や星を見て、自分の闇の中に光を願う

 

喪失感は涼しく、砂時計の落ちる眠りにもちろん落ちる

 

 

君と過ごした香りと一緒に出かけることにする

 

思い出は あの時の自分が季節に溶けることが出来た事

彼女が家にやって来てもう2時間が過ぎている。彼女は深海魚の図鑑を借りて来たと言っていた。
グラスの氷が溶けるのも気付かずに集中して読む姿は、宝の地図が解読出来る手前のようだ。
僕はR&BとHIPHOPのリミックスアルバムを聴きながら、
アラブ人に言われた「セ ピカン」という仏語の意味と綴りを考えていた。

「辛い」という意味なのだろうか?中途半端なレスを空中にブラブラさせて音楽を聴いて遊んでいた。
そして遥の方を見てふと思う。稀にこういう人に出会う。同じ部族というか、話さなくても解るというか、話さない会話が成立するというか。
占い師じゃないけど、傷を負った人にしか解らない深さがあると思う。彼女のさびしい時にはテレパシーを受けるかもしれない。徐々に自分の彼女に対する思いが不思議なものになりつつある。
そんな遥は無機質な白い三人かけのソファの隅に追いやられているように座っていて、
ガラスと白い木のテーブルの前で細長く折れそうな足が組まれている。机の上の赤い透明のグラスの雫が今にも垂れようとしている。
僕は彼女が図鑑を読む横顔を、横目で見ていた。

僕らはあの夜に別れた橋の上で待ち合わせをして、オルセー美術館に行った。
彼女は黒いタートルネックに膝下まであるベロアの薄いベージュのスカートに黒タイツの格好をしてやって来た。
足元は茶色いぺたんこの革靴。そして髪の毛は後ろにカチっとピンをうまく使って止めている。
凛とした雰囲気なのにどこか可愛らしい。以前会った時より身長が高く感じた。
ニット素材のタートルネックは体のラインがよく解ってしまう。あまり見ないようにしないと・・・。
今日僕はパリに来て初めて絵を見に行く。観光らしいことはしたことがない。
毎日は職場との往復で、目にするのは地下鉄の乗り換えの案内ラインが緑からピンク、仕事が終わればピンクから緑に変わること、週に3回地下鉄の車両にいつも同じ音楽家が乗って来て演奏をし、帽子に1ユーロを入れてやる。

ベルサイユは漫画の世界にしか知らなかった。シャンゼリゼエッフェル塔は母の観光に付き合う事でしか行ったことがない。そこに仕事は無く、別に本は家や近所のカフェで読むことが出来る。
僕の住むパリは13区の中華街で、そこで初めてドリアンなるものを発見し、日本のインスタントラーメンを見つけ、名前の解らないどこまで煮ても苦い野菜を買って食べた。フランスの植民地だったベトナムから来た移民が作るフォーが1番美味しいレストランに週に何度か食べにいく。

僕らはメトロを乗り継ぎ、オルセーに着いた。普段は美術館の前を通り過ぎながら、並ぶ人を見るだけだったのに、今日は自分がその景色に溶けているのかと思うと、非現実的な感じがした。
美術館にの窓口に着くと、遥は
「deux pour adult.si'il vous plait」
と言った。僕は慌てて「いいよ」と言っても、「あたしが誘ったの」と言ってお金を受け取ろうとしない。
そして窓口の女性からお釣りを受け取りながら「merci」と、その女性に返した。
「次は僕が払うから」そう言うと、
彼女は「入りましょう」と、僕に笑顔を投げかける。
そして彼女は入口の方へ歩いて行き、僕も続いて中に入った。
遥は入口近くの絵には目もくれず、さっさと歩いて行く。3メートルくらい離れたあとで後ろを振り返り、
「じゃあ後でね」と言ってさらに先に進んで行った。。彼女は買い物をする時は1人派なのだろう。僕はいつもそうだ。
僕は何も言わず、入口近くの絵から鑑賞し始めた。
美術館には普段一人なら(絶対に)入らないということもあり、思わず飾られた絵の迫力に圧倒されてしまう。

☆入り口あたりからの絵の描写☆

セーヌ川沿いで一日中絵を描いている老人に、「絵は観るモノじゃなく、感じるモノなんだよ」と言われたのを思い出した。
老いた画伯には失礼かもしれないけど、最初彼が浮浪者なのか何なのか解らなかった。
近くで見ると絵画というものは、絵の具が立体的に重なっている。感心する半面、昔の絵の具は劣化して剥がれないのか?と心配もしてしまう。
もし状態を維持するために剥がして描きなおす機会があれば僕にも手伝わせて欲しい。
歩きながら色んな絵を見た。描かれた女の人はふくよかな人が多かった。そして表情や影の量からは優しさや悲しみの心情が伝わって来た。絵が話し掛けてくるとは思わなかった。
しばらく館内の絵画に心を震わせながら眺めて歩いていると、僕は衝撃的に1つの絵の前で固まってしまった。
僕は周りのやさしいタッチの絵画とは違う、ザラリとした独特な質感の絵に目を焼かれる。
その絵は直接僕の脳に訴え、五感を全て奪うように飾られていた。何か特別な条件ではない。周りと変わらない昔の絵の具で描かれたその絵の引力に視界が逆らえず、その絵が僕を支配するようだ。
(あぁ、絵描きが言っていたのはこういうことか)呆然としつつ納得した。
遥がやって来ていることさえに気づかなかった。遥は僕の後から話し出す。

「その絵はドラクロワっていう人が描いたの。フランス革命の時の女性が旗を持った絵を描いた人よ。ドラゴンアッシュのジャケットにもあったじゃない?聴いたことない?」

「この絵を見て自分の何かが反応する」僕は黙りこみ、見入ってしまう。

「ふぅん。何に反応するの?」

僕は興奮すると何も聞こえなくなる癖がある。遥に何か言われたが、それを故意ではなく無視をして真っ直ぐ入口の売店の方に向かって歩き、日本語のオルセー美術館のガイドブックを買った。そしてページをペラペラとめくりドラクロワを探しながら戻る。
見つけた。これはライオン狩りというのか・・・。

ロマン派ウジェーヌ・ドラクロワ北アフリカの薄暗い荒地にアラブ人が猛獣狩りに繰り出すが、捕らえるどころか引き連れた馬もろとも襲われて殺される。巨大でしなやかに吠えるライオン。

この絵はドラクロワの内面の一部なのかもしれない。
1タッチごとに細胞を塗り重ねられ、命が吹き込まれ、油断すると今にも牙をむきだしたライオンが飛び出して襲われそうに描かれている。
恐怖の対象、絶対的な強さ、その強さに憧れること、猛獣に立ち向かって倒すことは、自分の持つ恐怖に打ち勝つことであって、それは宗教的でもあり、強さに対する追及であったりすると思う。
自分の中に居るライオンは猛々しく、絶対に狩られない強さであってほしいと思う。
しかし自分のライオンを想像してみると、黄色と茶色のオーソドックスなものしか思い浮かばない。むしろキリンが思い浮かぶ。キリンなら大丈夫かもしれない。
彼は何かに対抗するように、時代を切り裂くように自身を描いていたに違いない。
その彼のライオン的想いがこの絵には表れている。そうやってガイドブックに書かれていない補足を足しておいた。
妄想にふけりながらガイドブックを読み進めていると、彼の過ごした時代には優しく柔らかい光が浮かぶような印象派という絵が流行っていて、その画家たちに影響を与えていたみたいだ。
ルノワールもその一人らしい。
僕は一人で居るときに、好きな写真のシルエットに自分が入り込む遊びをしている。
自分がその作品を造るイメージをする。作品の製作途中段階をイメージする。作者がどうしていいかわからなくなる瞬間、もしくはあっけなく作り上げてしまった感情などいろいろ想像する。
それは小さな虫にでも可能だ。何かを見て感じるという事は、その作品から作者の想いや念を感じ取ることだと思っている。
解釈はこうだ。この絵は素晴らしい。だからここに飾られる価値がある。
しかし1、彼は何故この絵を描いたのだろう?その質問に大切が集約されている。
しかし2、それを言葉に表すことは不可能であり、その代わりにこの絵に”具現化出来た”という、その時点を僕は認めている。
そしてこの絵には僕の気持ち、何かが共鳴している。歴史に生きた人たちを心の内で評価するのは、誰にも言わなければ何も咎められない。
彼はきっと周りを気にせず、いや、気にしたとしても自分を貫くように、自身を描いていたんだろう。
もし僕が彼と同じ時代に過ごし、もし同じ夕食のテーブルについたらどうなるのだろう?
きっと彼はテーブルの上にライオンや、旗を持つ女性の絵を並べるだろう。僕はテーブルの上に何を置くのだろう?
思い浮かばない⁂。最近出会ったグラフィックデザイナーが頭に浮かんだ。撮影のアシスタントとして参加した時、彼女はモデルとしてそこに居た。
専門学生時代に授業を無断で休んだ理由を聞かれ、「晴れていたから」と言ったらしい。
作品を一つコンクールに出したら西日本のベストに選ばれ、その後は休んでも何も言われなかったと言っていた。
彼女は「なんで晴れていて休んだらいけないんやろ?」と、京都弁の真顔で言っていた。背骨がアーティスト。変わった女の子だった。
遥はどうなのだろう?遥もそんな人たちと知り合う出会う機会があるのだろうか?
気がつくと知らない間に遥が僕の後ろにいてドキッとした。

「ねぇ、疲れちゃった。カフェに行きましょうよ」

近くで食事をすることにした。美術館にいる間ほとんどライオンの絵の前から動かなかった。僕らはオルセー美術館を出た。

美術館を出て歩いていると、

「どうだった?絵は楽しめたかしら?」と聞かれる。

「うん。彼と話し合ったよ。周りに合わせないことについて」

ドラクロワと?」

「そうだよ。時代の生ぬるい感じが、的を得ないんだってさ」

遥はまじまじと僕の顔を見るが、僕は前を向いて歩いた。何を思われてるか大体分かる。
日本を出る前から感じていた的を得ないという違和感。現代の社会にマーケティングとして売れるものに納得がいかない。本当に良いものは認められず、若い芽は埋もれていく。
美味しいところは頭のいい人や要領のいい人にもって行かれ、苦い部分は真面目な人が残さずに食べている。
世の中の見えないライオンに食い殺されているのかもしれない。
小学校の昼休みに机の給食と向かい合う同級生がいた。。彼はキュウリが食べれなかった。それをクラスの担任は許さなかった。
僕は彼を救うため、学校の給食トレーを1枚を隠し持っていた。そして担任がいない隙を見て空のトレーと友達のトレーをすり替え、僕はキュウリやグリンピースが載ったトレーを持って廊下を走った。たまに量が多すぎてポロポロこぼした。僕は他のクラスの子に給食を持って走るイメージを持たせることに成功した。そう考えながら歩いていると遥はずっと僕の方を見ていたらしく、

「まだ妄想しているの?」

と、聞いてくる。僕が困って下を向いていると、

「お好きなだけごどうぞ」と笑い、僕は嬉しそうな横顔を見ながら歩いた。そしてテラスの屋根が赤いカフェに着いた。適当な席に座り、僕はギャルソンにサンドイッチとディアボロマント、遥かエスプレッソと水を頼んだ。

「まさかあんなに一つの絵だけを見るなんて驚いたわ。よっぽど気が合ったのね」

「今まで絵画は食わず嫌なだけだったのかもしれない。他にもいいなっと思う絵はあったけど、ドラクロワの絵は頭から離れないな」

「あなたがフランス人と街中を走ってた横顔と同じ顔してたから、ちょっと嬉しかったな」

するとギャルソンが「 voila (どうぞ)」と言って、僕の前に緑色の炭酸水とサンドイッチ、遥の前にエスプレッソと水を置いて去っていった。愛想もなく、グラスとサンドイッチの皿を机に音を立てずにスッと置いて去って行った。舞台のシーンを変えるナレーションみたいだった。

遥に置かれた珈琲を見て思う。こっちで珈琲を頼むと信じられないほど凝縮された珈琲が出てくる。しかもカップが小さい。僕はエスプレッソを知らなかった。
初めて飲んだ時、ゴーヤを齧る罰ゲームを思い出すくらい暗い気持ちになった。ゴーヤが嫌いなわけじゃない。ただゴーヤと分かっていたら頼まなかっただけだ。
僕が頼んだディアボロマントはレモネードにミントが溶かしてある飲み物で、甘い炭酸とハッカが混ざっている。ミントはフランス語発音でマントと言う。
サンドイッチにはフランスパンにバターが塗られ、ハムとチーズが挟まれている。
僕が食べるものはいつも決まっている。好物と言えばそうだけど、食べ物にはこだわらない。

「きみは誰の絵が1番好きなの?」
遥が珈琲を一口飲むのを待ってからきいた。

「トロワイヨンて言う風景画家が好きよ。彼の絵には沢山の動物が描かれてるわ。ドラクロワとは違って、牛や羊の優しい絵を描くわ。きっと彼は草食系男子。あなたと見た目が同じ。因みにドラクロワはトロワイヨンの10個上よ。同じ時代に生きてるわ。でも私は絵を観るより自分の描いてる方が好きかな。なんていうか、砂時計が一気に落ちるみたいに、気付いたら時間が飛ばされているの」

ゴーヤ珈琲を一口飲んで彼女は続けて話す。

「あたしの両親は画家よ。小さい頃から絵とバレエとピアノを習ってたの。バレエをやりながら絵の個展も何度か開いたわ。両親はあたしを画家にしたかったらしいの。それでここに絵を描きに来たのだけど、画家って言ってもリフレッシュは必要じゃない?だから一度だけオペラ座にコッぺリアって言う作品のバレエを見に行ったの。するとそこに踊る人たちは自分自身が絵になってたの。まるで絵が動いているみたいでたまらなく美しくて、完璧に心を奪われたわ。そしたら次の日からそのことが頭から離れなくなって、もう一度バレエをしようと決めたわ。絵は好きだけど、あたしは絵よりも踊りで自分を表現したいって気付いたの」

隣を歩く彼女の良い姿勢や少し顎を引いて話す雰囲気も、そこから来ているのかと納得出来た。

「今はマレ地区にあるバレエ教室に通ってるわ。先週、そこにオペラ座のバレエ学校の先生がたまたま見に来ていて、あたしの踊りを見て「うちの学校で勉強する気はないか?」って言ってくれたの。それで一カ月後に試験を受ける事になったの。今は両親に内緒だけど、そこの学校に入ることが出来たらちゃんと話そうと思うの」

綺麗な姿勢で淡々と話す彼女には無駄なものが無かった。彼女からは美しさよりも強さを感じ、あぁ、これが凛としているということだと思った。彼女の言葉からは沢山の意思と季節を感じた。だから僕は彼女と話しているうちに、だんだん苦しくなる。
僕は彼女がエスプレッソに角砂糖を一つ入れてスプーンでかき混ぜている様子を眺め、今の置かれている僕とディアボロを飲んで、遥の此処に居る理由を理解した。
僕とは違う。希望や挑戦を持つ人に、迷った奴の言葉なんてかけれない。そういった人には弱さを見せれない。邪魔になるだけだ。

「そうなんだ。凄いよ。遥なら絶対受かる。君は不思議な魅力を持っているし、実は君がバレエをやっているんじゃないかなって思ってた。背骨がバレリーナなんだよ。チャンスは生かさなくちゃね」

僕は笑いながら視線を地面に落として話した。少し棒になっていたかもしれない。

 

「そうだ、明日は早番だし、僕はそろそろ帰ろうかな」
逃げたかった。急に独りで居る時のことを思い出す。
病院から帰った日のこと。
着ているパーカーを床に投げ脱ぎ捨て、少しの間放心して思いなおして棚の上に畳んで置く。
冷蔵庫の音が部屋に響き渡り、窓の外からわらび餅を売る声、車や人の歩く音、ゴウゴウ言う飛行機、鳥のさえずりがカーテンの隙間から順番に並んで、たまに重なりながら入って来ていた日のこと。
梅雨明けの夕方、恐ろしく空白だった。「逃げたい」何度か口からそうこぼれた時、
半分の僕は空虚な洞窟から出ることが出来、感情を言葉に綴ることが許される。
僕の半分は青いラグの上に立っている。僕の半分は空気に青い文字を綴る。
しかし何も書かれることはない。ただ好きなコトや辛いコトを交互に僕の頭に浮かべて涙を流す。しばらくすると半分は洞窟に戻る。

「いいわ。出ましょう」

ギャルソンを呼んで会計を済ませ、机に50セントを置いて席を立った。背中に機械的な「メルシーオヴワー」を聞きながらカフェを出た。
これ以上彼女を嫌な気持ちをさせないような受け答えできる自信が無かった。
嫉妬の感情が頭を出してしまう前にこの場を切り上げてしまいたかった。
カフェを出てしばらく歩いていた。遥は黙っている。
10メートルくらいだろうか、彼女は歩きながら頭の中で荷物をまとめ、整理していたのだろうか。

「あなたは逃げるのね」突然彼女が話し出す。

「え?」

心臓を掴まれた気がした。僕は半分で笑顔と言葉を絞り出して聞き返す。

「逃げてないよ・・・どういうこと?」

「あたしはあなたの逃げる先を知りたいわ」

彼女は僕を見ずに、湖の水面をスラスラとアメンボみたいに話す。

その言葉には一定のリズムがあり、単調で流れそうなのに、僕の深い部分に到達して離れない。

夢を追う人の話は聞きたくなかった。自分でも何故だか解っている。そういう話を聞くと何もない自分は惨めに暗い崖へと落とされてしまう。

通りには観光客を含めてたくさんの人がいる。その景色が映画の早送りのように内容がうまく入ってこない。

相手に自分の影が映らないように笑いながら考える。

僕のやりたい事。その先に広がる事。僕には自分が本当に望むモノが解っていない。

この国に居る理由が見つからない。

「あたしがバレエを選ぶのは、思うように生きたいから。そのテストには本気で受かりに行くわ」

背中に汗が噴き出すのを感じ、防衛本能が働いて自然に口が開く。

「いいんじゃない?僕は別にここで何かを残そうとも思っていないし、君にはここに居る理由があって羨ましいな」
(残したい。自分を試して、何かを証明したい)心と言葉が離れていく。遥の顔に笑顔は見えない。

「ふぅん。それってここに来れば見つかるモノなのかしら?あたしはそんなの日本に居ても見つかる気がしてるわ。あなたってやっぱり理由が大切なのね。理由のために生きているの?それって本気じゃない人の話よ。全力な時には理由じゃなくて感情論なのよ」

遥は台所でキャベツをザクザクと音を立てながら切るように話す。
木人形がある。
規則正しい温度を持つ操り人形。その人形に僕の顔が貼ってある。

「何度も言うように、アナタはあたしの想像を超えたのよ。みんな理由ばかり。皆がこうするからとか、何かのブランドに就職して選ばれることがステータスだとか。あたしの失望はそこなの。その人がブランドじゃないわ。けどアナタは理由じゃないの。衝撃的なのよ。フランス人と街中を走る、会ったばかりだけどあたしにはわかるの。あなたは海外の男性に負けちゃう情けない男の子じゃない。あたしの感は正しいのよ」

淡々と話す中に、彼女の気持ちが少しずつ高まっていくのを感じた。

日本で僕に期待し続けた母親、周りの人間に潰された時のことを思い出した。

僕がここに来たのは過去の自分を乗り越えたいからだ。

誰も最初から木人形で居る訳じゃない。しかし僕はこの気持ちを彼女に伝えることが出来ない。

今僕の居る現実とあまりにもかけ離れた想いを口から出すことは、より自分を惨めにするだけと解っているからだ。

だから何も答えられない。答えたらもう戻れない気がする。

僕はここがどこか解らなくなる。

僕の持っていた夢や内面、母や周りの人間から受けた期待と愛情の深さが憎しみに変わる瞬間を僕は知っている。

仲間に僕がフランスに行くというと、「何しに行くの?」と聞き返してきた。

言いたいことは解る。

「じゃあお前は何しにこの国で大学に行くの?」と聞けなかった。

もし聞いたら、「良い就職先を探すため」という鉄板の回答が待っている。

僕は思う。

夢よりも良い就職を取った方が正しいというのなら、

夢を追うより仕事をしてお金を多く稼ぐことが立派であると言うのなら、

大学を卒業して内定の先にある月給20万と年2回支給されるボーナスに純粋な蒼さを売ってしまうことを肯定してしまえば、

僕はここに居る自分の存在を消してしまう。

自分は未来は自分で選ぶと決めて日本を出たのに結果がない。

僕はここに来て自分の無力さ、途方に暮れる現実を味わい、弱さを受け入れるのを拒否する毎日を飲まされていた。

遥との差、お互いの時計の針の動く差、その差が悔しくて情けなくて、泣きそうになるのを何とか堪えた。僕は”言い返す”

「一方的に意見を押し付ける癖が君にはあるようだね。
僕には僕の事情がある。僕は仕事もしているし、君みたいに仕送りをされている学生じゃないんだ。自立しながらだと立場も違うのかもしれない」

(立場なんて関係ない。今その時に何を想って、何を通して想いを投影させるかが大切なんだ・・・)

「ねぇ、今のあなたってカッコ悪いわ。本当はそんなごまかしを言う人じゃないのに・・・。ねぇ、ドラクロワと何を話したって言うの?あなたの言う的を得る得ないって、周りに合わせて生きていくことなの?ここはメトロポリタンでアーティストの集まる場所なのよ?ブランドを立ち上げる人が夢を持って集まる場所なのよ。本気で生きてみなさいよ。あたしだって、本当はやりたいことなんて解ってないし、不安でたまらないのよ!!」

彼女は叫んだ。彼女の目から涙がこぼれていた。通行人が僕らを見ている。しまったと思った。また人を傷つけた。しかも本心じゃない言葉で・・・。

遥は涙を手で拭いて、そして大きく深呼吸をした。

「押しつけて悪かったわね。謝るわ。もう勝手にしなさいよ」

そう言って彼女の綺麗な泣き顔は消え、歩く後ろ姿を見せながら僕から離れていく。

声が出ない。何を言っていいのか解らない。

今さら思うことではないかもしれないが、立ちすくんだ。

呆然としながら彼女が離れているのを眺めた。

目だけを動かし、遠くから人が自分を見ていることに気がついた。僕は下唇を噛んで下を見ている。

黒猫は言う。

「乗リ越エレナイ。キミニハムリ」

「うるせぇ!」僕は知らぬ間に、大きな声で叫んでいた。

通行人はギョッと僕の方を見て、僕が彼らを見ると彼らは目を逸らす。

僕はここに居られなくなり、遥と反対の駅に向かって歩き出した。

黒猫はあくびをして、ひんやりしていそうな床で、ペタリと横になって眠っていた。

帰りの途中、地下鉄の中、歩いていても表情を持てなかった。よく覚えていない。

木人形のまま家に着いた。

扉を開けて家に入ると靴を脱ぎ捨て、上着を全て床に落として半裸でソファに座り、飲みかけの赤ワインをグラスに注いだ。

グラスを手に取り一口飲むと、渋みが喉をスッと通り過ぎる。

日本に居た頃、自分のせいで最後の試合に負けたことを思い出した。

チームの監督からは、「お前のせいで負けた」、そして親に「恥さらし」と言われた。

どうだっていい。遥からはもう連絡は来ないだろう。

僕は単調な毎日の空白に耐える準備をしていた。

タバコに火をつけて部屋の空白と、その中に立ち上り揺れる煙を眺めていた。

しばらく頭を抱えて居た。

そうしていると、電話がかかってきた。音が鳴る電話を眺める。出たくなかった。

しかし10コール無視しても鳴り止まない電話から、何かあったのか?と思い受話器を取った。

「allo」(もしもし)

「youto,on a decide ton verdoring. dans un mois. Ca va?」

(君のスタイリスト試験を1ヶ月後に決めたいのだけど、どうかな?)と上司から言われた。

「mais...je rentre au japon dans un mois....」

(え・・・後1カ月で日本に帰るのに、何でスタイリストの試験があるのですか?)

僕は聞き返した。しかし上司のファブリスは笑い、声で祝福をしている。
突然過ぎて、うまく頭に入らない。
試験は上司から見てアシスタントがスタイリストになる資格があると思った時、突然テスト日を告げることになっている。電話を切った後、やっと理解できた。
僕はスタイリストになる資格を得た・・・。日本に帰るのに。
悲しかったはずなのに急にテンションを上げられ、どうしていいかわからずソファに座ったり立ったりを何度も繰り返し、窓の外を見て遥のことを考え、絶対に負けられない。そう思った。

職場の同僚は地方から何人も来ていて、その多くは2カ月でクビになっていた。知らない間に居なくなる。
その度、「なぜ彼女はクビになったのか?」と聞くと、「eh bahan…parce qu'elle est saloppe」(彼女は馬鹿な事をしたのさ)
と言われる。フランス語を何度も聞き返す僕に、説明が面倒な時にはこうやって長文は省かれる。たまにありがたくない。
しかしこの時はどちらにも感じなかった。仲間が居なくなる理由を僕は追及しなかった。もともとそういう場面、高校の頃の部活で誰かが辞める時に理由を聞いても引き止めたことはなかった。
どんなにその子が精神的に弱って辞めても、クビにされても、理由なんて関係ない。ただ明日からそいつは居ない。それだけだ。次は僕かもしれないと思って語学をさらに必死に勉強するだけだった。僕が働く美容院はフランスでも屈指の有名店だった。サロンは2階建、スタッフは30人いる。国籍はフランス、ドイツ、スペイン、イタリア、イギリス、ポルトガルスウェーデン、マレーシア、中国、日本、パキスタン、後は覚えていない。ミーティングはほぼ英語。
色んな人が居た。フランス語の下手なドイツ人のジャネットは白髪のロングヘアーで普段はとても温厚な女性だった。サロンの皆でシャンゼリゼのクラブに行った時、彼女と職場のスペイン人の彼氏は先に着いていて、彼女はポールダンスで使う棒を片手を伸ばして掴んで両足を棒の下にくっつけて、そこを軸にしてクルクル回りながら雄たけびを上げていた。
仕事中キレると英語になるボスが、「彼女、あんな風だったんだね・・・」と呟いたのを覚えている。職場の6割がバイセクシャルだった。たまに変な汗をかく。男から男同士の恋愛相談を受け、ベッドシーンを詳しく話されたりアプローチされたり危険がたくさんあった。しかし僕は自分を守り抜いたことを断言する。
僕はいつもフランス人のベンとフランクというスタイリストにいつも挟まれて冷やかされていた。彼らはELLEやVOGUEなどのファッション誌に載ることも多かった。フランクは突然営業中にズボンのチャックを開けて、お客さんの見えないところで自分のモノを出して僕に見せたり、僕がシャンプーしている女の子が可愛いと、シャンプーをされている彼女の頬と口にキスをした。ベンは親子で来ている女の子が可愛いとその母親に、「娘さんと付き合ってもいいですか?」と片膝を床につけて聞いていた。
週3でアサヒビールを買いに行かされた。サロンの外でいろんなフランス人と会ったがフランス人が全員こんな風ではなかった。
ここで働く人は変わっているか、ゲイ、レズ、バイ、もしくは表面的で冷たい奴かどれかだった。

次の日から僕の思考は加速する。
僕は片っ端から綺麗な子を選び抜いてモデルに選んだ。試験は12人のロングからショート、ボブのカットをし、それに音楽と衣装メイクを施してショー形式にする。ショーが終わった後に上司3人にカットを見られる。
上司3人のカット料金は約一万円。僕は何人ものスタイリストがデビューしていくのを見ていた。華やかにデビューしたスタイリスト。上司が見守る中、本当に良いショーというのは拍手が鳴りやまない。しかし逆の場合がヤバい。誰も笑っていない。感性が認められないのだ。
僕はその両方の時に居合わせて、ショーに魅了されたオーディエンスがスタイリストに集まって頬にキスをしたり、スタイリストが絶賛、称賛される場面、それとは正反対に苦笑いを隠した仲間内が近寄って行く気まずい雰囲気を味わった。
とにかく僕は後者になりたくない。その恐怖もあり、仲間を集める為にメイクを出来る人を探した。ブノワの電話を思い出す。すぐに日本から来たヘアメイクの子に会った。
直樹という日本の男の子。直樹は家もなくフランス語もしゃべれず、今は友達の家に泊まっているらしい。彼は仕事を辞めてメイクの学校に行くためにフランスに来た。僕がメイクを依頼した時はすごく喜んでいた。

後はモデルだ。モデルは顔と体形が命。撮影の時に出会った京都弁のグラフィックデザイナーを思い出す。その子に電話をかけ、無理やり予定を開けてもらう代わりに酒をおごる約束をした。仕方ない。
毎日走りまわり、仕事が終わってまっすぐ帰ることなんて出来なかった。今までの生活とは打って変わった。僕は仕事に対して日本に帰らなければいけない立場にあることをずっと理解していたし、先は無い物だと思っていた。試験を受けるなんて夢のまた夢だった。試験に合格してもスタイリストとして働ける時間はないけど、それでもスタイリストになる資格があると認められることが嬉しくて仕方ない。しかし、チャンスは逆にすれば失望に変わる。今度はしくじる訳にいかない。僕は毎晩ソワレに出かけ人脈を辿り、サロンを辞めてヘアメイクに転向したカラーリストの僕に気がありそうなヴァンソンとも会った。彼は何人か仲の良い顔立ちの整ったモデルを紹介してくれた。笑顔を振りまきながら必死に走りまわり、そして一週間後にモデル探しは後1人というところまで来ていた。
服飾の助っ人も見つかり、条件は整い始めていた。日本人のリナという女の子だ。
徐々に時計の針は動き出す。僕らは連日連夜、遅くまで僕の家に集まり、酒を飲みながらモデルの顔写真を並べ、ネットでショーに使う音楽を探し、モデルに着せる服のデッサンをし、それに合うメイクや髪形も含めて話し合った。素人たちの意見を集約すると、絶対に不可能な髪形を提案してくれる。僕は人形で何度もスタイルを作っては崩した。
「髪の毛で虫を表現できないのか?」 そう直樹に言われ考えるが、僕は虫が苦手だし、虫の種類が思いつかない。直樹はいつも真面目に話す。
そしてリナが良いと言う服装のデザインを僕が「微妙」と言うと、「じゃあやらない」と言われ、僕も「勝手にしろ」と言い、僕がリナのミシンを使った。その間リナは外に出てタバコをふかし、部屋に戻りテレビをつけ酒を飲み始める。彼女はハイネケンとコーラを混ぜて飲んで、机の上のスライスされたパンにカマンベールチーズを乗せて食べていた。
そんな時直樹は我関せずと自分の髭を入念に剃り、自分のメイクボックスを開いて顔に髪がかからない様にカチッとピンで後ろに固定し、鏡の前に座って自分の顔にファンデーションを荒く塗り始める。今時使わない深紅の口紅を自分の唇に引き、目から化粧を始める。猫が踊るミュージカルに出演するような目頭、目尻に強くアイラインを引き、チークには青とオレンジでグラデーションを造っていた。僕がリナのミシンと死闘を休戦した瞬間横を見ると、直樹の顔はもう猫の歌舞伎になっていた。僕は始め何度か飲みかけたコーラを吹き、リナはタバコにむせて目を丸くしていた。そうやって3人が結束していく。
ある日僕が部屋に入ると、リナと直樹がキスをしていた。どうやら直樹はリナの家に転がり込んだようだ。僕は彼らと目を合わせず、「30分隣の部屋貸してやるよ」と言うと、リナは僕を睨んで奥の部屋に行き、直樹は下を向いてメイクのデッサンを始めた。その時僕の出した声には、「お前ら抜きでやってもいい」、という怒りを隠したトーンが含まれていたのだろう。別に隣で誰が何をしようが関係ない。ただ仕事をしないなら居てほしくなかった。そして案の定、僕の意地で作った服はただの手を加えたぼろ布になり、隣の部屋に居るリナに僕の処女作を見せると、まんざらでもなさそうな声で、「いいわね」と言いながら、僕にもう一度布の買い出しを指示した。僕らはお互い強い言葉で会話しながらも普通だった。こういう似たようなやり取りを既にお互いの立場を変えて何度もしていた。今回のショーは自分の経歴に残る。仕事以外の時、モノづくりの瞬間に何を考えているとか、僕らはよく酒を飲んで笑いながらも真剣に話し合った。僕は服の作業の合間にカット練習をした。1ミリもずらさないように。僕らは自分にも、誰に対しても妥協するつもりがなかった。気付くと店に朝の3時まで残って同じ人形を切っていることがあった。外界を遮断して、誰も思いつかないようなスタイルだけを考えた。外は闇に包まれ、2階建ての職場の窓から見える景色に街灯以外誰も居なかった。見返したかった。本気で生きているのかと言われて、僕は前から必死だったはずだった。しかし今自分ががむしゃらにやっている事さえこの先20年後から見ると、ソレが未来に繋がっていたことかどうかなんて分からないだろう。しかし今過ごす時間に不安はない。空虚な洞窟の中を立ち止まることなく歩いている。怖いのは、洞窟の中で立ち止まってしまう事だ。立ち止まってしまうと闇は青みを帯び始め、それに呑みこまれると個は完全な影にされ、一寸の希望さえも入らない闇に閉じ込められ、思考は溺れてしまう。しかし今の僕には闇を歩くことで自分の芸術に触れている。命の色を確認している。午前3時の店で一人片づけをしながらそう思い、テストの日がやって来た。それは完璧な7月の初夏だった。

4-2

僕は彼女の後ろについて歩いてバーカウンターの隣にある階段を登り、VIPルームに案内された。
ドアを開けると部屋の中は畳の匂いが充満していて、大麻だとすぐわかった。
部屋は壁に沿ったL字のソファが置かれ、メガネをかけた黒いシャツの痩せた男が居た。
その黒シャツは服の上からでも体格は引き締まっている事がわかり、髪を上で留めた女の肩を抱き、少し離れたその奥に体格のいい色黒で単髪の男、隣に長い黒髪の女が座って話をしていた。
痩せた男がこちらを見て、僕を案内した女が応える。
「今日の友達よ。」
女が仲間に言うと4人の視線が僕に集まる。
「紹介するから名前を教えて。」 女に聞かれる。
「ゆうと。」とだけ答える。
すると女は、
「あたしはナオ。その黒いシャツを着てる男はタツヤ、肩を抱かれているのはヒトミ。 その隣がケン、髪の長い彼女はミミよ。」
僕は4人に、
「初めまして、この部屋はいい匂いだ。」と微笑みかけながら挨拶をした。
すると黒いシャツの男は何の表情を浮かべずこちらの方へ、「ふーっ」と煙を吐き、何も言わず手を伸ばして手にある巻きタバコを僕に差し出した。
男が色白なのが差し出す腕から解った。 顔は向けず目だけが不気味にこちら見ている。
口元の気分は良さそうだが、目は切れそうに冷たかった。必要な事意外は言わないタイプだろう。
僕は手を伸ばしてタバコを受け取り、口元に運ぶ。その間をお互い目を外さなかった。
この男が僕の少しの動作と表情の動きから感情を読み取ろうとしているのだろう。
この目は俺はまだお前を信用していないと語っている。
それに応えるように僕はそれに口をつけてゆっくりと息を大きく吸い込んだ。タバコの先がバチバチと赤く光り、僕は頭を後ろにのけぞらせ、5秒くらい肺に煙を溜め込んでから大きく上に煙を吐いた。
タツヤが僕の顔を見て、「ヒューッ」と声を上げ仲間に笑いかけ、他3人も笑っている。

そのタバコは色黒のいかついケン、隣のミミ、ヒトミ、ナオの順に渡る。ケンとミミはキスをしていた。
二人の唇は合わさっていない。 2人は顔を近づけ、ケンは両手の平で自分の口にトンネルをつくり、大麻を吸ったミミが煙が漏れないようにケンの手に口を合わせ、ゆっくりとケンの口に向かって吸った煙を吐いている。水中で酸素ボンベがなくなってしまったダイバー達が酸素を交換するように。

音が弱くなったVIPルームでその様子を見ていた。
タツヤがこっちに来て座れと手招きする。 僕は彼の隣に座り、空いたグラスにグラスにウィスキーを注がれた。
ヒトミが自分のグラスを持って僕の隣に腰掛ける。ニコニコと笑う女だ。僕はタツヤとヒトミにグラスを合わせた。 ヒトミの目がトロンとして、
「あなたとは仲良くなれそうな気がする。隣の二人は気にしないで。あたしたちはまともだから。」
と、大きく笑いながらウィスキーのボトルを取って口をつけて勢いよく喉に流し込み、口から離すと同時に床に零した。
リンゴが蝶の形に切られた柄のTシャツにウィスキーがよく染まる。
「巻けよ。」 タツヤにそう言われ、小さな袋に入った大麻を渡された。
「紙がない。」と 僕は言う。
タツヤは何も言わず長い巻きタバコ用の紙を僕に投げ、それがテーブルにはじかれて床に落ちた。
僕は黙ってそれを拾い、自分のマルボロを一本取り出し、テーブルにあったクラブのフライヤーを一枚取り、その上にタバコの中身を全て出した。
それに渡された大麻を親指と人差し指で挟みんで擦り、細かく砕きながら混ぜ合わせる。タバコのボックスの厚紙をちぎって丸めてフィルターを造り、それをペーパーの端に乗せ、その隣のペーパーのおり線を中心に混ぜ合せたモノを丁寧に並べる。それらを集中してペーパーの下から指で挟み込み、丸く棒状に伸ばしていく。指で挟まれたものは密度を上げながら徐々に固い筒状になっていく。 ペーパーのノリしろに舌の先で舐めるように唾液をつけ、
それをクルクルと巻きつけて一本のタバコにした。 フィルターの反対側の余った紙を丸めて出口を塞ぎ、フィルター側を下にしてトントンとテーブルに叩きつけ、密度をフィルターの方へ下げてタバコを硬くする。出口を塞いだ方の紙をねじって圧縮し、一本のタバコになった。
それを手に取り指で挟み、フィルターから2、3度指を抜く。
刀を研いだ後にその刃を点検するように。
そして僕はそれを口にくわえ、 出口を塞いだ余分な紙の部分をライターで火をつけ、息を吸いこんでその部分だけ灰皿に焼き落とす。
その芸術的とも言える作品をタツヤに渡した。
すると僕の隣に座ったナミが、「へぇ、手で奇麗に巻く人初めて見た!」
明るい声で興味を示して言う。 タツヤはそれを指にはさんでじっと見ている。機械で巻いたようにタバコは真っ直ぐに、動物の長い牙のように伸びている。
タツヤは口の端を上げながら言った。
「お前オランダにでも居たのか?」タツヤは僕を見てニヤついている。
「いや、フランスだ。」 タツヤは何も言わずにうなずき、消えたタバコの先にライターで火をつけそれを吸った。
今度はヒトミがそれをタツヤから受け取って旨そうに吸う。
隣を観ると、黒髪のミミはもう上半身は裸になり、床に膝をついてケンのモノを咥えていた。 ケンはミミの頭を猫を撫でるように触っている。
僕はその光景を目の端に捉えながらミミから渡された大麻を吸うと宙に浮くような感覚になる。
僕は今何を探しているが、それが何か解らないと思う。タツヤが僕を見て、
「効いてきたんだろ?」
そう言う。
「いい感じに。」そう応える。
部屋においはもう気にならず、音が流れている。そう言うことだ。音が入ってきているだけだ。
ボブマーリが大麻で神が降りて来ると言うのなら、酒で神も落ちてくるはずだ。だから大麻に神は居ない。僕はニーチェと似た違う意見を頭の中で述べた。

見つからない人生の答を探す中に毎日の仕事や人との摩擦があって、そこに意味を見いだそうとする、その俺の私生活に音に占領される部屋や畳の匂いが充満する部屋には隣の仲間を気にせず自分のモノを咥え感じている奴らも居て、人目を気にしながら生きると気を張って不器用な人間の生きてる世界だって同じ中に含まれているはずだ。
だから漂いながら何かを探す真似をしても同じという事。
ミミの声が大きくなり、部屋全体に響く。ケンはミミの舐め、ナオはミミの足の間に指を入れて笑っていた。
ミミは叫ぶように大きく喘ぎ、ケンは口でミミの口を塞ぎ、ナミは顔を高揚させながら自分の足の間に頭を埋めるミミの頭を触っている。
タツヤとヒトミはその景色を横目で見て笑っていた。
「おい、笑えるよな。こんな場所でだぜこいつら?」
そう言ったタツヤは喜んでいた。
「なぁ、俺はこんな奴らを見て数えるだけだ。好き勝手生きるつじつまの合わない人間の数をな。」
タツヤから笑顔が消えていた。
「俺たちには誰が気持ち良くなろうが関係ないだろう。」
僕はそう言い、タツヤは俺を見た。そして誰かに肩を掴まれ振り向くと、ナミにキスをされた。
舌が俺の口に入ってきてざらりとした固い苦みを俺の口の中に入れて来た。
それは絡められる2つの舌に挟まれ時間をかけて溶かされていく。
「エクスタシー。飲んで。」
ナミはそう言いながら口を離した。
僕は溶け残ったそれをウィスキーで流し込んだ。
僕の脳みそは痺れている。そう身が体感じたのか解らないが、しばらくすると脈打つ音が外に漏れるくらい鼓動が強くなっている。

 

目を瞑るとある光景が浮かんだ。
何度も夢に見た景色だ。駅のホームでベンチに腰掛けていると顔の無い黒い陰が隣に座る。それは黒くてもちゃんと人の形をしていて、何話さずとなりに座っている。いつも感じていたものが隣に座っている。しばらくして待っていた電車が来ても体は動かない。人の乗り降りと発車のベルをただじっと見て聞いていた。
知らないうちに涙が流れるというよくわからない夢だ。



景色が歪んでいる。僕は頬を叩かれた。
「大丈夫なのーこの子ぉ?」ヒトミがケラケラ笑っている。
ミミの頭が僕の右腿に当たる。ミミがケンに突かれる衝撃が僕の足にも伝わる。
ナミにジャケットを脱がされる。そしてインナーをまくり上げ、彼女は俺の胸に舌を這わせた。
そしてベルトをはずし、ズボンとボクサーパンツを下げて硬くなったモノを手で掴んで自分に入れた。十分すぎるくらいに濡れていた。
ナミは僕の上に乗って擦りつけるように腰を動かす。

ケンが我慢できなくなり、立ち上がってナミの頭をつかんで自分のモノをナミの口に出した。
ナミはそれを拒否するコトなくケンの全てを吸い上げると、こちらを向いて抱きついて僕にキスをしてそれを流し込む。
僕はむせてナミを突き飛ばし、嗚咽を上げてそれを床に吐く。
床の下に落とされたナミは酔ってヘロヘロと床から起き上がり、タツヤやヒトミ、ミミと大笑いしている。

僕はグラスに入ったウォッカを口に含み、両膝両手を床に付き、その混濁したモノを吐いた。
気が付くとケンが前に立って笑っている。顔は赤く興奮していて、嗚咽をあげている僕の腹を蹴りあげる。蹴り上げ、なおも蹴り続ける。
僕は嗚咽をあげながら呻く。そして気分が悪くなり飲んだものを全て吐いてしまった。全て吐き切ってしまえばいい。

僕はよろよろとケンにもたれながら立ち上がり、「触んじゃねえよ!」とケンに言われ突き飛ばされ倒れた。
僕は足元がおぼつかないままもう一度立ち上がり、机の上のウィスキーの瓶を取り、口をつけて底を持ち上げゴクゴクと飲んで口を手でぬぐった。

タツヤがずっとその様子を見ていて、俺に吸いかけの大麻を渡した。世界はエクスタシーと大麻で世界は揺れて、僕の脳みそはまだ床に転がっている。
タツヤはナミを突然殴った。ナミは弾き飛ばされる。それをケンとミミは裸で見て笑っている。

ナミは口が切れて、血の塊を吐いた。ナミはそれでも笑っている。タツヤは口から血を流すナミの髪を乱暴につかみ、チャックを開け、自分の股間にナミの口を近づけ、自分のモノを切れた口に含ませてナミの頭を前後に激しく動かす。ナミがゲホッと嗚咽を上げるのもかまわず、より強く押し付ける。
ナミの両手はタツヤの膝を掴み、ナミは頭を激しく前後に動かされている。僕はその景色をただ眺めた。

自由を奪われ、道具になる女を大麻の匂いを放つ空気と一緒になって、上から見ていた。
ケンはその様子をカシューナッツを口に運びながら眺めていた。活発な少年がたまに見せる澄んだ目をしていた。
俺はよく蹴られる気がする。そう思いながらその綺麗な瞳の少年を見ていた。
ナミは苦しめられたのにも関わらず、愛しい雄猫に頬ずりをする猫のように、達也のソレを綺麗に舐めていた。

僕は吸っていた大麻タツヤに渡し、ドアに向かい歩き出した。ドアを開けた時、後ろから何かを話すヘラヘラしたナミの「またおいでよ」という声をドアと共に閉めた。

また白い部屋で目が覚めた。 天井の白い蛍光灯が見える。 身体が思うように動かないことに気づく。
首の付け根に傷みを感じる。体は起こせないが、腕は何とか上がる。
どうにかして口元まで手を動かしてマスクを取り、近くの椅子で眠る母に声をかけようとしたが、呼吸器の補助マスクを自分で外したために息が苦しくなりベッドから転げおちてしまう。
高さ80センチほどのパイプベッドから床に肩から落ち、その拍子に腕の血管から点滴の針が抜けてしまい、血が床に飛び散った。
床に這いつくばったままアラームが鳴り続いた後に、看護師がやって来た。
何か怒鳴られながら木人形のように担がれてベッドに置かれ、再び口にマスクをつけられた。
しばらくして 呼吸が楽になる。隣に母がいるのが解る。
きっと泣いているのだろう。目を開けているのが辛くなり、昔一度母を泣かせたことを思い出しながらまた眠りに落ちた。

 

カチャカチャした音を聴きながら目が覚めた。薄く開けた目の先で看護師が点滴を替えていた。
点滴を交換する彼女の動きに合わせて窓からの光が僕の目に届いて眩しかった。
彼女は手際良く新しい黄色を吊るし、空になった透明をポケットに入れ、黄色が落ちるスピードを調節している。
黄色が落ちるのが速くからゆっくりに変わるのを見ていた。
その黄色を炭酸水に変えてくれたらぼやけた感覚もスッキリするのかな。
看護師は役目を終えると何も言わずに去って行った。

窓の外には電線と空しか映っていない、外を歩いたら気持ち良さそうだ。
窓の近くで何か小さく動いた。
置き忘れたボールペンに虫が一匹とまっていた。キャップの上を行ったり来たりしている。
窓の外に出た方が楽しいと思う。 それともそのツルツルした上を滑らない様に歩くのがそんなに楽しいのか。 小さい頃車道と歩道の間の白いラインの上を歩く遊びをしたがある。 ルールは落ちたら地獄に落ちる。 白い線が途切れるとジャンプして届く距離の次の白い線へ。そうやって家まで帰りたいのに、それは家の方に繋がらなくて、理不尽に切れてしまうけどね。

考え事をしているうちにいつの間にか虫は窓の外に飛んで行った。
しばらく窓の外を眺めた。 外の車の音と木の葉が擦れる音を別々に聴いていた。どこかで聞いた事がある。

なぜ僕が入院しているかというと、僕は雨が降る中ふらふら車道にはみ出して歩いて車にはねられたらしい。 その理由でこの無機質で退屈な無人島で暮らすことになった。
しかしその無人島で退屈さと引き換えに、日に日に体力を回復していった。
僕は3日で病院の購買まで歩くことが出来、自分で用を足せるようになっていた。
その前の二日間は地獄だった。
病院で出される食事は全て食べた。
好き嫌いはないが、新人の斬新なイマジネーションで生まれただろう酸っぱくて透明な細長い麺は薬にしか思えなかった。
機械的に回復しながら規則正しいリズムも悪くないと思った。
この白い無人島で僕の血管に"正常な黄色い何か"が流され、中枢で回復する為の指令が出され、絡まった紐がほどけるように問題が改善されていく。

僕の朝は起きて小さなテレビの電源を入れ、ジャックにイヤホンを刺してニュースを聞く。 それから休憩所でタバコと珈琲をして、廊下で会ういつもの知らない老人と見舞いに来た息子役をしながら会話をする。
老人との会話を適当にきり上げてから屋上で本を読み、少し疲れると病室で音楽を聴きながら眠った。
夜はたまに寝れなくて、妹に内緒で頼んだジンを飲んだ。
そんなメンテナンスを1カ月過ごした。

それを打ち切るかのように急に親以外の見舞いが来た。
入院したことを仕事先以外誰にも知らせていないから、見舞いは誰も来るはずもなかった。
来客は僕のベッドに近寄り、ジンジャエールの缶を二つテーブルに置く。

「コンッ」と音がして気付いた。 後ろを向くと、ニヤニヤしているマサが居た。

「ゆうと、大丈夫なのか?」と声をかけてくる。 一瞬戸惑うが 僕は起き上がり、懐かしい話し相手に嬉しくなった。

「大丈夫だよ。来てくれてありがとう。」久々に声を出した気がした。

「いいよ、おそくなってごめんな。」

マサはストールを緩めて、持ってきたパイプ椅子の背もたれに掛け、彼自身もその上から腰をかけた。

「急に来なくなったから心配したよ。連絡無く1週間だぜ?仲間内であいつ飛んだって笑ってたよ。」

笑いながら話す。マサは職場の仲間だ。

僕は溜まったものを吐き出すかのように話した。

「聞いてくれよ。昨日風呂に入れてもらったんだ。とにかく最悪なんだ。泡をつけて擦られ、足りないと直接ボディソープをかけて擦られる。まるで食器になって洗われる気分だったよ。とにかく恥ずかしくて惨めなんだ。食器洗浄機に入った方がマシ。」

マサが笑いながら、

「ネタになりそうだし、どこをどう洗われるか飲み会で使えるようにしとけよ。」

ニヤケ顔で言う。すると急に曇った顔をして、

「高橋いたじゃん?あいつの親が急に店にきて、「辞めさせてもらいます」って言うんだよ。本人は来ず。でまぁそれであっさりやめてさ、それからオーナーはあんまり話さなくなるし、お前のこと聞いても「あいつはしばらく来れない」しか言わないし、どうしようかと思ったよ。で次の日、朝から急にテンション上がってて何かと思ったら辞めた高橋の代わりに新しいスタッフが来週から来るのが決まったんだって。2年くらい経験のあるアシスタントの女の子らしい。高橋の埋め合わせができたってこと。」

「ふぅん。」と、ジンジャエールを開けながら素っ気ない返事をした。別にスタッフ1人居ないなら居ないでそれなりにやれる。それっきり僕が何も言わないでいるとマサは、

「お前もう顔色良くない? 戻って来いよ。あ、でも入院している方がお前は健康的だな。ハハッ。」

嫌味に聞こえないユーモアは頭の回転の速さのおかげだろう。

「早く働いて不健康さを取り戻したいね。」笑いながら話した。

「そうだ、アレ置いとくから食っとけ。俺もう行くから。」

テレビの方を指さしてマサが言った。
そして椅子から立ち上がってストールを巻いてドアを開け出て行った。
もぎ取られたパイナップルがテレビの上に乗っていた。
「高橋と俺なに話してたっけ?」まぁいいか。

その二日後に僕は退院した。

次にマサと会ったのは6月の夜、21時のデニーズだった。

 

「なぁ、なんでデニーズ?」

マサが不満げに聞いてくる。
僕はパリパリチキンサラダを食べながら、

「俺は24時間変わらないデニーズに会いたかったんだ」

と答える。 マサはこちらを見ずコーヒーを一口すすった。居酒屋がよかったのだろう。
僕は遠い目をされながら口の中にパリパリと音を立て続け、マサはマルボロを1本取りだし火をつけ煙をふかした。 頭に何かが引っ掛かった。 最近誰かに同じ事を言われた気がする・・・。
考えているとウェイトレスが白とピンクの縦ボーダーの姿で近寄ってきて、
「珈琲の御代りいかがですか?」と言う。
どこかで、誰だったっけ?確かに言われた・・・。僕は考えていた。
ウェイトレスはお時儀をしてどこかへ行ってしまった。 マサは足を組んでシルバーのジッポをカチッカチッと言わせながら開けたり閉じたりしている。 格好を付けたタバコに火をつける練習でもしているのだろう。

「これからどうする?」 マサは聞く。

「別に何も。」 とだけ答えた。

そこからはマサのバイトの話、彼女や仕事の話をいろいろ聞いた。
特に興味無かった。

最後にマサは、「今度飲み会開いてやるよ。」そう言って、僕らは会計を済ませて外に出た。

金曜の夜だったし今からクラブに行くことにした。マサとは音の趣味が合う。 一緒に行って話をしたり、暇そうな女の子にお酒をおごったり踊りたければ踊り、帰るときには携帯で「出る」とメールを打つだけでよかった。
夜のキラキラと喧騒の間を歩く。

僕らはクラブに着いた。道端に若い男女、並んでから入り口で柄の悪そうな坊主頭の隣にいる鼻にかかった声を出す女から4枚のドリンク券のついたチケットを買いた、中の階段へと下りていく。
足を入れるとそこには暗闇の中を生きた光がカラフルに世界に照らし、天井から甲高いハウスの音が降り注ぎ、ドラムの音が足元を震わせ、その間をピアノの電子音が泳いでいる。 週末ということもあって人で溢れかえっていた。 僕らはいつものように人ゴミをかき分けてカウンターに向かう。他人の身体と擦れる摩擦をうまく調節しながら進む。チケットを一枚ちぎり、ドリンクを頼んだ。 半身でひじをカウンターに付いて酒が出てくるのを待っている間、女の露出した肩や目を黒く囲んだアイメイクされた顔がホールで踊る姿が目に入ってくる。

あの踊り狂う集団の中には将来髪が無くなったり、アフリカに転勤が決まったり、子供を10人産んだり、新たなソフトウェアを開発する天才が居るのかもしれない。酒がやってくる。俺はジンライム、マサは神風を頼んだ。
神風はウォッカとライムジュースの酒だ。いい趣味をしている。マサは髭を生やし、ラフシモンの黒のタイトズボンにレザーブーツ、襟付きシャツ、布タイ。 僕はディオールのデニム、同じ白い2センチほどの蜂の刺繍の白シャツを着ている。
バーテンから酒を受け取り、適当なテーブルについた。
僕らの周りにはいくつもの違うグループが同じテーブルに酒や灰皿を置くだけにしてうまく共有し、後ろの席の女の子に3人組の男が話しかけ、話し声と鳴り響く音がバランスを取っていた。
マサが何も言わずこちらを観る。

「とりあえず、復活おめでとう。」

グラスを持ち上げこちらに近づける。

「大げさだ。」

グラスを合わせる音と周り声が混じりあった。 喉を焼くような冷たさが身体に流れ落ちる。
タバコに火をつけ酒を飲んだ。
そしてグラスが空になるともう一度バーテンに声をかけ、ウォッカを2つずつ頼んだ。
カットされたライムを齧り、僕らはそれを一人2杯ずつ一気に続けて飲み干す。
口の中に一瞬酸味が広がり、その感覚はすぐ口の上から耳の方へ移動してウォッカの通り道を造った後、食道は一瞬にしてウォッカによって焼け野原になる。しばらくしてそれが徐々に治まってくるのを感じていた。
ライムの酸味の余韻とウォッカの消えかけの残り火が仲良く手を繋ぐ香りが僕らの酔いを手伝ってくれる。
マサは顎をホールの方にクイッと向けて立ち上がった。僕も黙って立ち上がる。煙草を手に持ったままホールに歩きだした。
タバコの火が人に当たらないように自分の身体側に向けて歩き、ゴミのような人が集まる真ん中は避け、僕の背より高いスピーカーの前に移動した。
背骨を真後から出る銃撃音に叩かれて煙草を吸う。自分の背中よりも大きな透明なハンマーでリズム良く殴られているうちに骨髄にまで音が流され、女の口に舌を入れたように酔いが体の中心へと溶け始める。
目が何枚ものドットフラッシュを捉える。 はだけた女が踊り狂っている連続写真が見えた。

彼女は目を瞑り薬中が取り押さえられ暴れるかのように踊っている。
僕は彼女を意識の中心に置くように努めた。 しばらくすると彼女と目が合った。
僕が近づくと彼女は微笑んだ。
彼女の踊りを目の前にすると鼓動は速くなり一体僕と彼女のどちらがが踊っているのが曖昧になる。
なにも解らなくていい、ただ今は世界と繋がる糸を切りって自分の心臓の速さで時間を計ればいい。
身体を心臓と同じように動かさないと死んでしまう気がする。

そういえばスペインに行った時、骸骨を音に合わせて踊らせる路上パフォーマンスを見た。あれは何と言うんだろう。表情のない骸骨を生きてるかのようにロックンロールを踊らせていた。彼女の手の平が僕の胸に触れる。僕は驚気を隠すのが精一杯で一瞬息が止まってしまう。
酔いが確実に身体へ沁み込んでいく。
何も考えたくなくなり、ただそうしたいのと同時に、彼女の手を引き寄せキスをした。
していたと言った方が正しいのかもしれない。 彼女は舌を入れてくる。彼女は口を離してケラケラと笑い、僕の首に手を回した。 目が溶けていた。 少し焦点も定まっていないようだった。
僕は両手で彼女の体を離して体を元に戻した。
そしてジーンズのポケットから瓶を取り出して蓋を開け、それを鼻から吸った。
意識が真空になり、時の針は逆に回る。 脳の痺れを感じながら目を閉じていると、彼女はその瓶を僕から取り上げて同じように鼻から吸った。 彼女は笑って、顎を上げて真顔になり、また綺麗に滑り出すように踊り始めた。
長い髪をかき上げながら、骨のない両生類になったように 体をくねらせて踊る。
僕も何枚もの彼女の徐々に狂って行くフラッシュを観ながら踊り続けた。

※※
大きな体育館みたいな建物に大勢の人が詰められ、そこにトラック10台分のテクノとハウスが流され、僕は向かい合う細身の女の子と踊っている。音と彼女は同期され、官能的な音には淫らに踊り、はじき飛ばすような音にはまるで闘っているかのように踊った。カールスコックスのテクノだ。

 

どのくらいそうしていたのかわからない。目を瞑ったまま踊っていると彼女は急に僕の手を引いた。僕はバランスを崩し前のめりになってしまう。そんなことはおかまいなく彼女は右腕を引っ張りフロアーを抜け、ぐんぐん進み、ロッカーに向かうその通路で僕の首を抱き寄せてもう一度キスをした。両手で頬を持たれ、彼女の汗でじっとりした胸が肋骨に当たる。これは現実ではない。知らない女に人が見ている通路で必死に唇をむさぼられている。 まるで酸素が僕の中にしか無いように。 キスをしながら横をみると、マサが赤とオレンジの花柄のTシャツを着た女と顔を近づけて一緒にこっちを見て笑っている。 キスをしながらフランスのクラブで髪を切った日のことを思い出した。 僕はクラブで男の髪を切ると、その男の彼女が喜んで僕に近づいて「お礼があるわ!」と言いトイレに連れて行かれた。 トイレットペーパーの器具の上に細長い白い粉があり、一瞬何か解らなかった。僕は理解してその感謝を鼻から吸った。深呼吸をして世界が変わる。 本能に触れる為の条件をフランスのあるブランドのデザイナーに聞かれた。
「本能を起こすにはドラッグ、セックス、あと何だと思う?」 もったいぶるようにそいつは話した。
「殺人だ。」 僕は頭の中でその言葉を思い出しながら生き残るためにキスをしていた。 そして彼女は笑いながら、両手で僕の胸を押して身体を離した。
「アナタ一体何なの?」
彼女は僕の両手をつかみ、腰を折って笑っている。
「知らない。そっちそ誰なんだよ。」
「ふふっ。あたしは人形よ」
現実の言葉ではない。糸が切れる。

「そうだ、そうやって甘いものを作るんだ。異常な時にしか本当は見えない。」 いつの間にか猫が居た。
一瞬 猫と彼女が重なる。 「こっちに来て。」 猫はもう見えなくなり、僕は促されるままに黙って彼女についていくしかなかった。
これから何か起こることだけはわかっていた。

君は今何をしているのだろう、もし生きていたら。

僕の頭の中で、僕と同じものを観ているのだろうか。

なのに、会う約束が出来ないのは何故だろうか。

どうして僕の独りを辛くしたのか。

 

そうやって、目が覚めた。

風がカーテンがひとりでに動いている。意識がはっきりしている。

まだ暗い。4時過ぎだ。

窓から雨が入ってきている。知らぬ間に雨が降っているようだ。

遥はまだ眠っている。

からしばらく通りを見降ろしてみる。

何もかわらず、ひっそりと景色は佇んで、それを雨が叩いている。

僕は窓を左から右に窓を閉め、二つを丁寧に重ね合わせる。

そして鍵となる取っ手を横から縦にし、隙間が生まれないようにうまく密着させる。

雨の音は弱くなる。

外の音は雨が柔らかく窓を叩くだけになった。

ベッドには枕に顔をうずめた遥がいる。

傍に行って、聴こえるのは心地のいい寝息の音だ。

彼女の顔を観る。遥は生きれない、僕は生きれる。

気持ちの移動が出来ているのは遥なんだ。

僕にはここにいる理由がわからない。

気付いてしまったことから逃げることなんてできない。

つまり僕は死んでいるのだ。

ここで何かを残そうとも思っていない。

決断が出来ずにただ下を向いて歩くような毎日で、

ソレを悟られないようにしている、

ただソレだけの、意識を吊るされた、

規則正しい温度の人形なのかもしれない。

そう思っていると、また眠りに落ちる。

家に着いてリビングの隅で靴を脱ぐ。
この部屋に玄関はなく、靴は床の上に置くことになっている。大家はフランス人とは思えないほどの几帳面なマダムで、部屋の中で靴を脱ぐ習慣のある日本人にしか部屋を貸さないらしい。
3人掛けの白いソファに腰を下ろした。机の上に置いてある朝飲んだペリエの緑のビンが目に留まる。
緑のガラス瓶は窓から射した光を受けて透け、真ん中でステンドグラスのような透明なグリーンの光を机の上に放ち、下にゆくにつれて色は濃く深くなっていく。
ぼんやり眺めていると、家の電話が鳴った。

「allo」(もしもし)
「oui, c’est Benois. qu’est ce qui s’est passe aujourdui? 」
(ブノワだけど、今日どうしたんだ?)

「Eh…., On parle Japonais」(なぁ・・・、日本語でいいか?)
フランス語を使いたくなかった。

「bien sur , ma pulle」(ああ、いいよ)

「どうしたんだ、待ち合わせに来ず、携帯もつながらない。何かあったのか?」

完璧に近い発音だ。しかも関西イントネーション。
語学を19歳から勉強し始めた僕は、第二言語を後天的にこのレベルにするまでの大変さを少しは理解できる。
そして広大な自然のもと、日本人がまだ誰も住んでないと思われるナントという田舎で生まれ育ったフランス人がなぜこんなに日本語がうまいのかと感心した。

「色々あってね・・・、急に出来た友達とパリの町で鬼ごっこをしてみたくなったんだよ。そのせいで携帯が熟れた果実になって使い物にならなくなった。」

起こった出来事を印象に残った一文にまとめてみる。
彼は少し考えているようだった。

「見た目より人付き合いが悪い方じゃないと思ってたけど、そこまでとは知らなかったな。」

彼はそれが事実と捉えずに、まじめにその光景を頭に思い浮かべているのだろう。

 

「それより、今夜家に来ないか?日本からヘアメイクをしている子がいて、
君に会いたがってる。疲れているようだから、あまり無理にとは言わないけど・・・。」

「今日はやめとく。今夜礼を言わなければいけない相手がいるんだ。」

名前も知らない初対面の相手を殴る女の子を頭に浮かべた。

「そうか、わかった。家の電話はまだ熟れてないんだな?」

「あぁ、熟れていない。熟れることはないと思う。」

しばらく黙った。

「今日は呼吸も出来なくなる竜巻に巻き込まれて散乱しているんだ。
落ち着いたらちゃんと話すし連絡する」

「わかった。また連絡するよ。Ciao, a plus(じゃあまたな)」

「ありがとう。」

彼は理由を聞かずに電話を切ってくれた。電話なんて熟れるはずがない。
そして着替えずにベッドに倒れ込んだ。
すごく疲れてしまった。自然とまぶたが重たくなる。少しの間だけ目をつむる。

またあの声が聞こえる。

「時計の進み方が違うんだ」

頭の中で何かがしゃべっている。

「時間というものは一定のリズムで進むが、個人の中でそれは正しくはない。徐々に時計の針のスピードは落ちて、針が上に進むだけのエネルギーがなくなり、
何度も上には進もうと、しばらくそれを繰り返すんだ。今君はそんな状況に居て、この先もそれは君を待っている。そして君は外の世界の時間を知った時、初めて思い知るのさ。」

そんなことを誰かに言われているうちに、また深く意識は薄れてしまう。
どろどろに溶けていくような睡魔だ。
しばらくうつらうつらとしていると、突然聞きなれないベルの音がする。
カバンの中だ。僕は目をつむったまま横に置いてあるカバンに手を突っ込み、その音の鳴るモノを手探りで探す。
そしてボタンのついた音の鳴るモノを持ち上げ、グリーンのボタンを押す。意識がまだはっきりとしない中に聞き覚えのある女の声がした。

「少しは元気になったかしら?」アルトを少し高くしたような声がする。

「あぁ、もう大丈夫だよ」と答える。

僕の特技は寝起きに寝起きと悟られないことだ。

「そう。ところで今夜19時にバスティーユに来れる?」

「行けるよ。」 

「あたしの用が早くすめば19時には着けると思うの。何かあったら連絡するわ。じゃあ後でね。」

そう言い切ると通話は糸が切れたかのように急にぷつりと切れてしまった。

「はや・・・。」

僕は時計を見て今が18時だと確認する。
それと同時に壁にかかった時計の針が上に向かって動いているのを見て、僕はシャワーを浴びた。右肘に水が当たるとしみる。
肘をあげて見てみると、火傷をしたかのように皮がめくれて白い皮膚が出ていた。
それを見つめることは今日の出来事を確認するだけで、僕は痛い部分がしみないよう、なるべく泡がつかないように続きを洗った。

シャワーから出てバスタオルで体を拭き、ボクサーショーツ以外何も身につけないまま冷蔵庫を開ける。
グリーンの透明なビンを手に取ってその口元をひねる。「シュパッ」という気持ちのいい音がした。僕はそれに口をつけて底を持ち上げ喉に一気に流し込む。

「ゴクリ」という音とともに冷たい波が食道から胃にかけて押し寄せ、体の中心に染み込んでいくのを感じる。

外からは車のクラクションが聞こえ、外の世界は自分と関係のない声や音で溢れている。
僕はいつものようにその音を聴きながら白いソファに腰を下ろして目をつむる。
そうしていると次第に音は一つにまとまっていく。そして自分の呼吸の音に耳を澄ませる。

いつもクリアにしておくことが大切なんだ。起こりうるあらゆる出来事に左右されず対処できる準備をしておかなければならない。
PCのように淡々と。
自分にコマンドを与え、一定のスピードを狂わせず確実にこなすことが出来るように。
「一定のスピード」、それが大切なんだ。
その方法こそが僕が静かに生きていく術だということを、少なからず22年間のうちに学んできた。時計を目にする。18時30分。
僕は今日身に付けた汚れたミリタリージャケットを洗濯機の中に投げ込み、黒のVネックの7部丈、ブルーの胸もとに両サイドに縦のジッパーがついたダウンジャケットを着た。
夢の続きから現実に上手くシフトするように自分を運転する。
夜は冷えるけどダウンジャケットの真ん中のジッパーは上げないまま、首には船を停めておくためのイカリのデザインをした銀のネックレスをかける。
イカリには2匹のイルカとサメみたいな魚が二頭が絡みついている。
僕はその二頭の、相反しているものが共存している矛盾が気に入って買ったのだ。
彼らは捕食する側なのか、される側なのか・・・。
そんなことを思いながら、18時40分。

僕はまた先っぽの丸い茶色い革靴を履いて玄関を開け、いつものように階段を1つ飛ばして降り、肩で無駄に重いドアを開けBastille(バスティーユ)に向かう。
opera(オペラ)駅まで歩き、地下鉄を使う。切符を一枚買って改札を抜ける。
駅の通路には浮浪者が寒さから逃れるために身を置き、行きかう通行人に小銭をもらうために壁際に座り、

「s’il vou plait , s’il vous plait」(めぐんでください。)と声を大にして叫んでいる。

彼らの顔はよく日焼けをしていて、葡萄酒と尿の混ざった鼻を突く匂いがする。
彼らの足元を目を合わせずに通り過ぎて地下鉄7番線に乗り、Chatlet(シャトレ)の駅で一番線に乗り換えてBastilleまで行く。
Bastilleの駅についてドアが開く。19時2分。駅を出るとすぐに電話が鳴った。

「どこのカフェにいるの?あたしは今終わったわ。今レアルだから、あと15分くらいで着くと思う。濃いエスプレッソでも飲んでゆっくりしてて。」

それだけ伝えるとまたぷつりと電話は切れた。もう慣れてしまった。
僕は歩きながら携帯をカバンのサイドポケットにしまい、階段を上りきると正面にあるカフェが目に入った。
その前を通り過ぎ、自分がいつも行く二階建てのJAZZとHOUSEが流れるBARに入った。

二回の席に上がり階段近くの適当な席についた。
目上の人に会うわけでもないので奥の席に悠然と腰を下ろし、貸し出された携帯を机の上に置いた。

しばらくするとウェイターがやってきて、注文を聞いてくる。

白ビールを頼んだ。薄い苦い果物みたいな味のするビールだ。
ビールの好みは自分の趣味と共通している気がする。ただ苦いだけではダメなんだ。苦みの消えていく最中に残る感覚が僕の自由な想像を助けてくれる。
きっと胸元のイカリについた2頭は草を食べるわけでもなく、肉を食べるわけでもない。
少しだけ甘くて苦いプランクトンを食しているのだろう。海水を飲みこんでいるうちにその甘さや苦みを一緒に味わっているのだろう。
そしてその2頭はもうこの世にはいない、絶滅した生き物なのだ。
そんなことを想像しているうちに電話が鳴った。

「今Bastilleに着いたわ。どこにいるの?」

「カフェだよ。出てすぐの赤い屋根のカフェが見える?」

「ええ、見えるわ。あなたはそこにいるの?」

「いや、そこにはいない。そこを右手にして通り過ぎて通りを渡らずに右に曲がり、すぐ右手に細い路地がある。そこにある、chouchou(シュシュ)というBarにいる。」

「わかったわ。今行く。」

ぷつりと切れる。どうやら電話を切るタイミングは彼女の理解し終わった合図らしい。
しばらくして彼女は階段を上がり席についた。
僕の目の前の椅子に座り、

白ビール飲んでるの?あたしも一口欲しい。」

と言って現れるなり、返事をする前に僕のビールをゴクゴクとおいしそうに飲んだ。
そして隣を通りかかったウェイターに流暢なフランス語で僕と同じものを頼んだ。

「oui ,mademoiselle」(わかりました。)と笑顔を残してウェイターは裏に消えていった。

「やっぱり仕事後のお酒はおいしいわ。アサヒビールが恋しいわね。仕事の後には生ビールよ。」

彼女はオヤジ臭い事を綺麗な笑顔で話す。今日会った時の無機質でけだるい感じはない。
しかし女の子がデコレーションされたパフェを食べる前のような輝きもない。
なんというか、そう、マラソン選手が長い距離を走り終えた後、インタビューに答えるような輝きがあった。
日本で女の子を食事に誘って甘いデザートを頼んでもその笑顔を見れないだろう。

「ここは居酒屋じゃないよ。」 僕は彼女に尋ねてみる。

「そうね、ここは日本ではなくフランスなのよね。カミュがペストを書いた国なの。だけどカミュはフランス人ではないし、ここはあなたの言うメトロポリタンなの。探し物をしている色んな人が来る場所なの。集まった人達がこの場所を作り上げるわ。アーティストの集まる場所なのよ。」

彼女は笑顔で応える。彼女が僕に対してムキにならないのを意外に思った。

「君はここに何をしにきたの?」僕は聞いてみた。

「あなたと話をしに来てるわ。」

「いや、そうじゃなく・・・。」意味の重なる違う文章を探す。

「わかってるわよ。あなたのことは何て呼べばいいかしら?話はその後よ。」

言葉に詰まってしまい、目の奥に意識が入っていく。

「名前なんてどうだっていいんじゃないかな。三毛猫だからミケだって、鈴のような鳴き声という理由からタマだって、それは記しのようなものに過ぎないんだ。
単に名前は区別するための記号でしかないんだ。それぞれの名前には意味があるみたいだけど、中にはその意味通りに人生を全うする人もいるし、そうでない人もいる。
僕が思うに名前は、ただ一方通行な想いの首輪をつけられている気がするんだ。」

頭の想像を急に話し出してしまった自分に驚き、一呼吸おいて自分の位置を元に戻して続きを話す。

「日野悠斗だよ。」 ゆっくりと声に出して答えた。

すると彼女は微笑みながら、

「名前の意味、記号・・・。」
彼女は何か考えてる様子だった。

「あなたの名前、なんだか楽しそうね。ユートピアが名前の由来?」

彼女はこの質問を本気でしているのだろう。

僕の名前を親から「実はね、名前をつけに役場に行く前に酔ったお父さんが書き変えたのよ・・・。あなたの名前はユートピアから取ったの。素敵でしょ?」
と母に申し訳なさそうに笑う母に言われる事を想像した。

「違うと思う。君は?」と返す。

「あたしは大川 遥(はるか)。名前の意味は聞いてないわ。東京の美大に行ってたんだけど、半年前につまんないから辞めてきちゃった。」

彼女は落ち着いたのか、さっきよりゆっくり話しだした。

「なんで辞めたかって言うとね・・・。うーん。理由はこうよ。
あたしは東京で一人暮らしをしていて、インスタント食品に囲まれた生活をしていたの。それであたし思ったの。
いつか日曜の昼間からラタトゥーユとビールを飲みながらテレビをつけて、何も気にせずに時間を好きに使うって。今はそれを実行中なの。
ここに来たはっきりした理由なんてないわ。自分の行動に意味を付けるのは好きじゃないし、そんなことに意味を見いだせないの。
みんなが大学に行かなきゃいけないと思うと同じくらいの強さで意味を感じられないの。あたしはこんな感じ。あなたはどうなの?」

僕は一瞬考えたが、言うべきことは決まっていた。
しかし真っ直ぐな相手に対して本当のこと以外は言うべきではないとストップがかかり、迷ってしまう。
何も残らないなら、言わないのと同じだから。でもその代わりに、

「僕はある時旅がしたくなったんだ。日本ではない遠い国に行って、その国の固いパンをかじりたくて。
そしてかじりながら思うんだ。これは固い、と。そして新潟産コシヒカリの白い柔らかく光るご飯とふわふわの厚焼き卵のことを思い出すんだ。
それに、24時間買い物のできるドラッグストアやドリンクバーを支給してくれるデニーズに感謝をするんだ。大阪にあるパン屋に行ってパンをかじった時そう思った。いろんな堅さを探しに行こう、と。」

と応えた。ウェイターが白ビールを彼女に持ってきた。
彼女は机に置かれたグラスに軽く口を付けながら話し始めた。

「ふうん・・・。やっぱりあなたって変わってるわ。」

熱が冷めたように話す。

「でも少なからずともあなたは今日、あたしの目の前でフランス人と必死の形相で走って来て道の上を転がったのよ。衝撃的よ。普通じゃないわ。それなのにその後ケロッとして、まるでそれも予定が空いてれば別にいいですよ、みたいな顔してた。」

会話の流れを止めない一定のリズムで返す。

「起こることに対して多少の積極性を持って受け入れようとしているだけだよ。
いや、起こってしまった事と言ったほうがいいのかも。
例えばトイレに入ってから紙が無いことに気付いたとする。そしてトイレから紙を買ってきてくれと誰かに頼んだら、コピー用紙を持ってきてくれた。紙違いだ。
だから僕はペンを持ってきてもらってコピー用紙にトイレのイラストと、
ロール状の紙の絵を描く。そしてそれを渡す。他の部族と暮らすこの社会の中では必ず予期しないことは起こるし、その時にどう相手に伝えて、どう理解してもらうのかが大切なんだ。」

「うわ、やっぱり変。変わってる。」

彼女は笑いながら応えてくれる。

そして背もたれに背中をペタリとつけてこっちを見ている。
僕は初めて会った相手をいきなり殴る同郷の日本人の女の子に変わっていると、一日に何度も言われた。
しかしその類の言葉を言われる度に、本当は根本的には自分が正常だと思ってしまう。
僕の考える正常とは、ニュートラルな立ち位置であり、真っ直ぐに綺麗に上に向かって伸びていることだ。それは話し方でも在り、姿勢の話だ。
何かに価値を見出そうとして強く信じてしまうこと自体、自分の持つ価値観が堅斜めに傾き、その傾きが他のものとぶつかり合ってしまう。
その光景を目にする度、弱い方が傷つくだけだった。僕はそんなものは自分だけでいいと思ったし、そこにはあまり目を向けないように決めていた。

「僕は変わってない。」

呟くように、下を向いてそう言った僕の顔を彼女はじっと見つめていた。
彼女の深い、黒く光る瞳を見つめ返す。不安にさせる瞳だ。

「ねぇ、歩きたいわ。」

彼女はそう言うと彼女は自分のコートと鞄を手に取って階段を降り始めた。
その流れに対応出来ずその姿を眺めてしまう。
あわてて席を立ち、ウェイターに60フランを渡し、お釣りは要らないと伝え、彼女の後を追った。
外に出ると狭い路地にはたくさんのバーやカフェ、レストランがあり、
こんなに寒いのに外のテラスではコートを着てワインを飲んでいる人達がたくさんいた。

そしてある若者達はハイネケンの缶ビールを手に、コートも着ずたばこを吸いながら店の前で立ちながら談笑していた。
僕は彼女に追いついて右隣を歩こうとしたが、彼女はこちらを見ずに僕の右側に移動した。

「あたしはこっちなの。」

それだけ言ってまっすぐ前を見て歩きだした。彼女の目線はちょうど僕の右肩辺りにある。
僕の身長はどちらかというと高いほうで、おそらく彼女は165センチくらいあるだろう。
その通りを突き当りまで歩いて右に折れ、着た場所に一周して戻るように駅のロータリーでタクシーを拾った。
窓の開いたタクシーの運転手に声を掛け、彼女はドアを開け、

「musee de louvre ,s’il vous plait」(ルーブル美術館まで)

とだけ伝え運転手もまた、

「d’accord(わかった)」

とだけ答え、彼女はシートに体を入れ、僕もそれに続いた。
運転手も含め僕らは車の中では何も話さなかった。車内には陽気なラジオ番組が流れていた。
運転手はそれを聴いて、知っている曲が流れると鼻歌を歌った。
僕は彼女のほうを向かないように外の景色を見ていた。
夜の街は街頭が辺りをを照らし、行き交う人々をぼんやりと映している。
ぼんやりと照らされる幸せそうな人や、道に植えられた街路樹、アンティークなアパートの花が槍のように咲いたような窓の格子を眺めていた。
そしてブティックのガラスの中に映る赤いコートが目に留まり、それをもし遥が着たらどんなに似合うだろうと想像する。
彼女の細いウェストや、胸の膨らみはそのコートの上からでも十分わかるだろう。
そんなことを想像してしまい、必死にかき消す。
そしてタクシーはルーブル前に停まり、料金を払い外に出る。

遥は両足を丁寧にそろえて地面にブーツのかかとをつけて外に出た。
僕もその後に続いて外に出る。
外は頬を凍らすかのように冷たく、耳は冷凍餃子になるかもしれないと思った。
何も混ざっていない空気が広がっている。

「あの橋まで歩きましょう。」

彼女はそう言うと、僕らは遠く左手にみえる橋に向かって歩き出した。
二人とも何も話さなかった。

僕は彼女の1メートル後ろを歩く。
彼女の後姿は川沿いに映る古い教会や古い壁を何度も舗装したアパート、川の端に停まっている船の絵に、本来その絵に描かれたように彼女は見事に溶け込んでいた。

僕はこの景色を見たことがある。一人で帰る途中、何も思えなくなる時のことを思い出す。
どこにも行けないと思った、自分の居場所はどこにもないと感じた。
どうしても先に進めないという時があるが来たら黙って受け入れるしかない。
僕は少し距離を置いて歩いた。

そしてセーヌ川の橋の入り口に入り、彼女は黙って橋を渡り始める。
僕は彼女の後をついて行く。
橋の真ん中辺りまで進んだ時、彼女の歩く速さは徐々に遅くなり、立ち止まった。
そしてじっと橋から見える景色を眺めている。
僕は彼女の横に並び、彼女は話し始める。

「ねぇ、初めて会った人は気にするわ。あたしが今いくつで、何をしにフランスに来たのか、どうしてフランスなのか?って。」

沈黙の後、彼女はまた話し始める。

「そんなの関係ないじゃない。それを聞くことに何の意味があるのかしら。そんなことに応えることに興味なんて無いの。どうでもいいわ、他人なんて・・・。」

声が泣きそうだった。

「誰だってみんなそう思うよ。人の本当に興味がないからこそ聞いておくんだ。」

彼女は僕を見て、懸命な表情で話しだす。

「どういうこと?興味もなくその人の目的を聞くなんて、そんなの失礼じゃない?」

不安そうに怒る表情と何かを訴えたい時を混ぜた顔をしている。

夜の空気に冷えてしまった彼女の横顔が目の前にある。

「君は間違ってない。理由なんて本当は誰にも解らないし、それに君に聞く人も本当が見えないから質問をするんだ。感傷的になっているだけさ。」

僕は機械的に話す癖がある。昔の恋人に、本当はそう思ってないんでしょ?と、何度も言われた。その度にうまくいかなかった。
今なら解るが、それは多分僕が本当の意味で人を理解して受け止めようとしていなかったからだろう。

 

「あなたには何もわからないわ。」

彼女の言葉に僕は答えられない。胸を締め付けられながら僕は答える。

「そうなのかもしれない。でも、僕は君を解ろうとするよ。」

沈黙が流れ、その時僕の口から何故そんな事を言ってしまったのか解らなかった。

「あなたって、真面目なのね。」

街灯の光が彼女を笑う顔を照らしていた。泣いていたのかもしれない。

「あなたと居るとなんだか不思議よ。あたしの周りにいる空気と話してるみたい。」

彼女は涙ぐんだ目でクスクスと話す。
もし僕が空気だったらどんなに良かった事か。何にも逆らわずに色んなものを温めたり冷やしたり、自分を通さずにそれが出来る。

「僕はただ自分の想いに素直に生きたいんだ。それ以外に何もしない。」

「うん。あなたってそんな感じ。空気っぽい。」

「それ、ひどいこと言ってるって気付いてる?」

無理やり作った笑顔で彼女に聞いてみた。

「君の言う空気って何?」

「そうね。何もないの。ちゃんとそこにいるのよ。けど、うまく言えない。心に入ってにスッと消えちゃうの。」

「ゆうとの名前の由来は幽霊からきてるしね。」

僕はわざと真面目な顔で話す。彼女は僕の顔を見顔で見つめ、プッと吹きだして笑っている。

「僕は今日きみと初めて会ったけど、初めてじゃない気がする。
僕が言いたいのは、君を知っている気がするって言う、なんていうか・・・。」

「ナンパする時のあなたのパターン?じゃあ、聞くけど、あなたは私の何を知っているの?」

僕は下を向いて考えた。うまく返せない。彼女は僕の顔を見て事務的な微笑みをこちらに向け、

「今日は楽しかったわ。ありがとう。」

と言いきった。会話に刃物を入れられたようだ。

「ねぇ、あたしの携帯持ってる?」

僕は黙って携帯を差し出した。彼女はそれを受け取ると、

「ゆうと君、今度の日曜にこの橋に来てほしいの。ここに。今度はお昼にね。一緒に行ってほしい場所があるんだけど、いい?」

子犬がお願いするみたいな瞳に変わっている。

「もちろん。」

そう答えると彼女は喜んだようで、

「これ、渡しておくわ。」

と言って、彼女は1枚の名刺を僕に差し出した。そこには、beux arts Ookawa Harouka 06-XXXX-XXXX  rue d’antin 6と書いてある。

「電話してね。待ってるわ」

彼女はくるりと後ろを向き、そして綺麗な後ろ姿を見せて歩き始めた。彼女は一度だけ振り返り、こっちに向かって笑いながら手を振る。

「良く分からないや。」

僕はその場に取り残されないよう苦笑いで彼女に手を振った。
彼女が通りのタクシー乗り場でタクシーを捕まえて走り去るのを、僕はしばらく橋の手すりにもたれて、彼女のタクシーが見えなくなるの眺めていた。

その後、橋の入り口まで戻って自分もタクシーを拾い、家まで帰った。



上着をソファに脱ぎ捨て、グラスを一つ洗い、その中に冷蔵庫から取ったジンを注ぐ。
ライムを輪切りにしてジンの中に入れ、残りはカットして皿の上に置いた。

グラスの中にライムを入れた後、急にシャワーを浴びようと思った。
熱いシャワーが落ち着かない自分を流してくれるはず。バスルームにカットしたライムを持って来てしまった。
そのままシャワールームでライムを齧り、頭から熱いシャワーを浴び、しばらく目を瞑った。余ったライムの皮は石鹸の横に置いた。

バスルームから出て冷蔵庫から大きくて丸い氷を取ってグラスに入れ、裸のままソファに座る。
グラスのライムの果肉をマドラーで潰しながら、テーブルの上にあるカミュの戯曲、カリギュラを適当なページを開いて読む。
抜けるようなジントニックとライムを齧りながら文字を頭に入れていくが頭に入ってこない。

「戯曲 カリギュラ」は暴君として知られるローマ皇帝カリギュラを題材にした、不条理をテーマにした作品だ。

ある日家に帰ると、飼っていた犬がベッドの端が食いちぎり、中の綿が床に広がっていたのを思い出した。

お腹がすいたので、冷蔵庫の上のバゲットを手に取って切れ目を入れて開き、ナイフの刃を上手に返しながらバターを丁寧に塗りハムを挟んで食べた。
パリパリと頭の中に音が響く。

自分の穿いていたデニムのポケットから彼女にもらった名刺を手に取り出した。
それを眺めながら彼女のことを考える。他人から自分が来た理由を聞かれてムキになる彼女には人の視線がどのように差さっているのだろう?
またライムをかじり酸味が脳みそを撫でる。

何週間か前にセーヌ川沿いを歩いている時、笑っている人や泣いてる人を見た。
家族連れと別れそうなカップルだ。
僕はグラスを持ってソファから立ち上がり、窓を開けた。下の道路には人は居なかった。

誰も居ない月夜に黒猫が月の光をうらめしく鳴く姿を想像した。
この時間の夜は自分の空洞と重なる気がする。星が見えて安心するのは自分の闇の中に光を願うからで、グラスにはライムとジンの香る水が丸くて大きな氷を溶かしている。
僕は心地良い酔いを感じていた。

月夜の下の黒猫が話しだす。

「夜も太陽は関係なく君を照らす。それでいいじゃないか。人の目に映って気づくんだ。君と違う音を聴けるようになるまで耳を澄ますだけでいい。僕のお腹が空かさないようにね。」

それだけ言って、猫はくるりと後ろを向き、左右に尻尾をゆっくりと振りながら歩いていき消えた。

ソファに横になりながら「僕らは人に映るのかな?」と呟き、

「言葉が足りないんじゃない、まだそれを知らないんだから。」

と声がして、意識がソファにめり込んでいった。