半透明

2)

 

目が覚めると自分の背丈くらいあろうかという大きさの窓が開いていた。その窓からは外の音がよく入ってきていた。
風邪にふわふわと黄色いカーテンが揺れている。
そうだ、僕は朝までguy moquetのBarで飲んで、そこから1時間もかけて歩いて戻ってきたんだ。しかし、どうやって帰ってきたのかなんて覚えていない。ただ外の空気が耳に心地よかったとしか思い出せない。

僕はベッドからむくりと起きだし蛇口の水を一杯飲もうと思ったが、思い立って机の上の昨日のペリエをんだ。炭酸の抜けた炭酸水なんてただの水かと思ったけど、心地よい苦みのある温い水になっていた。悪くないと思いながら喉を潤すと、時計の針を見た。12時20分を指している。

また始まった。
今日の予定を頭に入れるため、かばんの中から手帳を探す。日本で買った黄色い熊が描かれた手帳だ。初めは黄色い熊がコロコロ転がっている絵を見て、妹に買ってやろうと思った。中を開けるとかわいらしいカバーとは全く逆に、無駄なイラストを一切排除した、効率のことしか考えない、まるで一緒にいると息の詰まる恋人みたいな中身が用意されていた。
しばらく中をパラパラめくっているうちに想像してしまう。
僕が仕事を終って帰ってくると、そんな息の詰まる恋人が黄色いクマのぬいぐるみを着てコロコロ転がっている。そして僕に向かってこう話す。

「あなた、昨日あたしに何て言ったか覚えてる?ひどいことを言ったのよ。今までの人生の中で一番ひどいことよ。あたしはひどく傷ついたの。けど、どうせあなたは覚えていないし、あなたに私の気持ちなんて解りっこないわ。」

と、主張している。可愛いのにたまに疲れてしまう、そんな手帳なのだ。
そんな恋人みたいな手帳を机に置いた。

13時 ブノワ l’hotel de ville

そうだ、日本から持ってきた変圧器がコンセントに合わなかったから、それに合うようなプラグを買いに行く約束をしたんだ。
予定に合わせるため手早く準備を始める。洗面所で軽く頭を濡らしてタオルで拭き、インナーに薄手の青いフードと、ミリタリージャケットに袖を通す。
そしてヘルムートラングのデニムとつま先の丸い茶色いカンペールの革靴を履いて玄関の戸を閉め、階段を一つ飛ばしで降りていく。

12時35分。約束の場所まで最低30分はかかってしまう。

メールで

「je suis en retard, au moin je surai a 13h10」

1時10分には着くと伝える。
一階のアパートの僕の身長の2倍はある大きな門のロック解除ボタンを押し、ブザーとともに肩で扉を押す。いつもながらなんて重い扉なんだ。
歩きながらスピードを上げて走りだす。外の空気は肌寒く、目的地に向かうには丁度よかった。犬の糞に気をつけなければこないだの惨劇になってしまう。注意深く走った。
Bourse(ブルス) から Hotel de ville(ホテル ド ビル) に行くには駅にしたら2区間くらいで、歩いて十分いける距離だ。
セーヌ川沿いのペットショップの前を早歩きで進めばつく。しかし今はそんな優雅に移動する時間はなく、迷わずショートカットを選ぶ。
いくら遅れそうになっても目的地にはそれなりの手段で、問題なくたどり着くことが出来るようになっている。僕はそう思う。ただ今日は特別いつもの道は選ばなかった。
しばらく走って少し早く着くことが出来るかと思い、携帯を出してブノワにメールを打ちながら走る。45フランで買えるサンドイッチにコーラが付いてくるパン屋の角を曲がり、
人目のつかない路地を進もうとしたとき一人の少年が近寄ってきた。

「excuse-moi.tu peux me preter ton portable,silt e plair?ma copine elle vient pas encore.je m’inquite d’elle.(あの、携帯かしてもらえませんか?待ち合わせをしてる彼女と連絡が取れないんです)」

アラブ人特有のフランス語だ。すこしなまっている。もちろん人のことは言えないけど。
彼女が待ち合わせに来なくて電話したいなら、1フランやるから公衆電話でかけろと言うと、

「Eh!etends!t’as ton portable.just une seconde!」(いや、携帯持ってるじゃん。ちょっとだけ貸してよ!)

しつこいな・・・。

「tien .j’ai pas le temps.depeche toi.」(時間がないからすぐ済ませてくれよ)

携帯を貸してやった。少年は礼も言わず携帯を奪うように取り、電話をかけ、おそらく3コールくらい鳴った後彼女は電話をとったようだ。うまくつながったみたいだ。そして何やら同じことを繰り返しながら話している。電波がつながりにくいのだろうか?
まぁ誰かに親切にして少し遅れるなら仕方ないかと思いながら、ガラス越しにあるパン屋のツナとサーモンの入ったサンドイッチを見て、次はこれにしようと決める。

電話早く終わらないかな、と思いながら彼女を待つ彼を見るが、まだ話は終わらない。
長いよ。会ってから話してくれないかなと思いながら周りを見渡す。

通りには誰もいなく、僕たち二人だけだ。いや・・・。遠くに2、3人彼と同じ年くらいの男がいる。いやな予感がする・・・。僕の携帯を待つ少年がその少年たちの方へ歩いて行く。やばい。

「passe moi!」(もう返してくれ)

言い切る前に走り出された。マジ簡便してくれ!
間をおかず、遠くにいた少年達が僕の前を防ごうと走り近寄って来る。
案の定の展開になってしまった・・・。だがしかし、お前らじゃ俺に触れない。7年間だてに高校の部活で走り込んでない。そこにいる3人を一歩左前へ足を出し、加速してかわしながら携帯を持って走る少年に向かって走り出した。

「なんだよこれ、まじかよ・・・」

こんな単純な言葉が吐く息と混ざって口から出てくる。しかし彼はそんな僕の言葉と一切関係ないスピードで僕の携帯を握ったまま道路をまたぎ、グングン先へ走っていく。僕も道沿いに走りながらタイミングを見て、左側から走ってくる車に注意しながら道路を斜めに横断し、走って追いかける。ここの車のルールは日本と逆の右側通行だ。不慣れなせいもあり、普段から色んなことを気にしない僕は何度ひかれそうになった。
いや、今はそんなことを考えてる暇はない。ブノワとの待ち合わせなんか間に合わないのは確実で、その代わり僕は確実に”今やるべき”の中に居る。
彼は後ろを何度も振り返り、僕との距離を確認しながら苦しそうな表情と共にどんどんスピードが落ちていく。
彼も僕もすでに息は上がり、マラソンをしているような感覚だ。どこまで走れるか、彼に純粋に追いつきたいという気持ちで走っている。
彼が急に失速し始める。
距離が15メートル、10メートル、どんどん縮まり、やっと追いつくことが出来る。
今さっき目指していた背中に辿り着くが、これで達成してはいないのが悔しい・・・。
ところが彼は僕が1メートルほど後ろまで追いつくと、突然僕の携帯を高く持ち上げ、地面に叩きつけた。「ドカッ」という音とともに、僕がゴールにしていた携帯の液晶の画面が綺麗に外れ、普段より背筋をピンと伸されて地面に弾かれて転がった。

彼は携帯を投げつけた勢いを利用して僕に殴りかかろうと右手を後ろに引く。僕は自分の顔面に向かってくる最初の右のストレートをかわし、体育の柔道で習った大外刈りを狙いに掴みかかろうとする。僕が彼の襟元を掴んだ時突然、背中に大きな衝撃が走って前に倒されてしまった。

「putain de japonais!」(くそ日本人が!)

言い放ちながら、続けざまに前のめりに倒れた僕の脇腹を2、3発蹴る。
僕が最初にかわしたやつらだ。僕は息が出来なくなり、体を丸めて腹を押さえる・・・。
そして追撃を逃れようと、二の腕の力だけで起き上がろうとすると、今度は頭を蹴られた。サッカーボールじゃない。いや、それよりも守らないと・・・。頭がぐらぐらする・・・。
彼らは僕に何か叫んでいるがうまく聞こえない・・・。

「allez!on se casse!」(もういい、いくぞ!)

周りに人が集まってきたせいか、彼らはさっきより少し遅いくらいのスピードで周りを見渡しながら去って行った。
僕にはもう追いかける理由なんてなかったが立ち上がり、彼らの逃げていった方向に2メートルほど歩き、脇腹が苦しくなって膝に手をついて立ち止った。
しばらくすると、

「ca va?tu peux marcher?」(大丈夫なの?歩ける??)

60過ぎくらいのお婆さんに声をかけられる。

「oui,merci ca ne fait rien.」(ありがとう。なんでもないです。)

正直苦しかった。しかし大したことじゃない・・・。息を整えることに集中する。
これでブノワとも連絡が取れなくなり、携帯の保険のために警察にも行かなければならない。

「クソっ、何なんだ!」僕はそう吐いて、この後の予定を大まかに頭の中で組み立てようとする。
しかしそれが今は無理だと気付く。思ったより冷静じゃないのかもしれない。
僕は近くのベンチまで歩き、服に付いた砂埃をはらいながら座り、呼吸を整えて身なりと状況を整理しようと努める。
なんで俺がこんな目に逢わなければならないんだ。大きなため息をしん呼吸と共に2度つく。そしてぼーっとする。まぁ、とりあえず・・・、帰るか・・・。
もう一度大きなため息と舌打ちをして、遠くの街路所の周りに犬の散歩をしている老人を眺めた。
そしてその老人と、肩にかけた大きなカバンの下が不自然なくらい膨らむ少女達がすれ違うのが目に入った。そんな遠くの光景をしばらく眺めていると後ろから聞きなれない声がした。日本語だ。

「街中で鬼ごっこしてる人、ここで初めて見たわ。」

振り向くと、さっき見た女の子達と同じカバンを肩にかけた、けだるそうな雰囲気の女の子が立っていた。間違いなく笑顔ではない。不意をつかれてしばらく黙っていた。

「鬼ごっこをするつもりはなかったよ」

それだけ答え、そしてその女の子をじっと見た。最近日本人と話していないせいか、近くで見るのが珍しかった。彼女の髪は黒く、首の下、長さは鎖骨くらいの長さで切られている。

この11月にネイビーのタートルネック1枚に、黒のロングスカートに明るめの茶色いワークブーツ、首周りに薄い黒のストール。そしてその上から黒の光る石のついた長い首飾りをしている。服飾か何かの留学生だろうか。

「足はまぁまぁ速いのね。持久力は人並みだけど。3人はキツかったようね」

「あぁ、最近走ってないからね」

面倒だったので顔を向けずに声だけで答えた。

「そこに落ちてるモノはあなたのでしょう?」

彼女もこちらを見ず、自分の数メートル後ろを指さして話した。
まるで100メートル先のタバコ屋を見て用事を思い出すかのように。
彼女の指差す方には買って半年も使ってない携帯が、赤と黄色のコード三本でつながって地面に落ちていた。そうだった、携帯壊されたんだ・・・。
再びブルーになる。そしていつも一緒に居たかけがえのないモノが実は、
とてもカラフルな血管を持っていることを意外に思って眺めていた。彼女はそんな僕の横顔を見ながら話し始めた。

「よくあることよ。ケータイなんてもともと二つ折りじゃない?それにただ便利なだけで生きていくのに必要なものじゃないわ」

まるで携帯が割れるのは、果物が熟れる事は当たり前だと言うように話してくる。僕はイラついて答えた。

「そうだね、縛られずにいるのも悪くないね。けどね、これは僕だけの問題じゃなく少なくとも僕の周りの人が巻き込まれるんだ。例えば今日僕と約束をしている人とかね」

彼女の意見が根本的にズレていることを指摘しようとした。彼女はがっかりして、ため息混じりに話す。

「そう。あたしはね、ただ同じ日本人がフランス人何人と2番目に走ってきて、携帯を真っ二つにされて、
アルマジロみたいにくるまってコロコロされてるのが腑に落ちなかっただけよ」

彼女は遠くを見ながら機械的に話す。まるで料理教室の先生が魚料理に白ワインが合うことを、よく切れる包丁で野菜をザクザクと切りながら説明するように。
そして今度は感情を込めたように、

「だってそうでしょう?それが国民性っていうものじゃない?それをあなたは何でそんな言い方をするわけ?あたしが見て感じたことに何かおかしなことはあったかしら?
もしあなたがそんなアルマジロみたいにコロコロする草食系男子なら、おうちでラタトゥーユでも作りながらビールを飲んで、司会者自身しか盛り上がらない夕方のテレビ番組でも観てればいいのよ。そしてテレビに映る観客と一緒に手を叩いて、2時間もかけて下手くそにナイフとフォークを使って鳩でも切ってりゃいいのよ。大半の日本人がそれを目的に来るのと同じようにね。」

と、一気に話した。僕は頭にきて反射的に言い返した。

「だったら君がそれをやってホームステイ先のマダムに必要以上に可愛がられて、つたない単語をつなげるだけのフランス語でオシャレなパリの生活の中にいることに満足して、
慣れない外人の真似をしておいしい紅茶を飲んで、Ouiしか言えない意味のない受け答えをしてればいいんじゃないか?だいたいアルマジロだって肉を食べ・・・」

突然右のこめかみに衝撃が走った。僕はまた地面にうずくまり、痛みの走る場所を手で押さえる。痛い・・・。今度はピリッとした痛みだ。

もう一度彼女を見ると知らない間に近づいていたらしく彼女の足が目の前にあり、見上げると彼女は僕を見て睨んでいる。

整理すると、僕はフランス人の少年達とパリの街を走り回った後に携帯を壊され彼の仲間に腹を蹴られ後、
初めて道であった訳のわからないことを話す日本の女の子に右側の頭を強烈に殴られたのだ。一体何が起こってるんだ?混乱する。
落ち着こうとして僕は立ち上がり、彼女に向かってなんとか声を出す。

「よく、聞いてくれ。僕は君とここで向き合う必要もないし、君に殴られる必要もない。それにこんなことがあったからと言って警察にも行かない。
それ以上に、僕は君の話に付き合っている時間はないんだ」

彼女の目を真っ直ぐに見て言った。彼女は口を結んで上から僕を見ている。

「すぐに理由をつける癖があるんでしょ?本来は感情論が先なのよ?じゃないとちゃん伝わらないの。」

彼女はそう言い終えると、僕にハンカチと彼女の携帯を差し出した。

「かわいそうだからしばらく貸してあげるわ。言っとくけどあたしはね、あなたと話したせいでランチも取れなくなったし、携帯まで貸してあげるのよ。すごく親切じゃない?
それが同じ国で生まれた者同士が優先するはずのことじゃないの?」

彼女の言ったことを考える。しかしすぐに返す言葉を思いつかなかった。

「ここで会うのは国籍も何も関係ない。ここはメトロポリタンだ。」

適当な言葉を並べながら、もう一度ズボンの砂埃をはらった。

「今夜電話するからお礼はその時に決めてね。じゃあ、あたし行くから。」

と、彼女はまともな返答をせず自分の言いたい事だけ言い切ってさっさと来た道を引き返し、背筋を伸ばして振り返らずに去って行った。
しばらく声を出せずに彼女の後姿を見ていた。何なんだ・・・。
ああいうタイプもいる。そう諦めて本来二つ折りにはならない彼女の携帯を持って、また近くのベンチに腰を降ろした。なぜか携帯をすぐに返そうとは思わなかった。
鮮やかすぎて何も言えなかったのかもしれない。彼女の言った言葉が心に残った。

「理由をつけて話すこと、感情論が先ということ」

口に出して言ってみる。街の喧騒が耳に入ってくる。自分に対してはそうであるが、そうであってはならない。そう思いながら熟れた携帯を手に取り、走って来た道をゆっくりと時間をかけて思い出し、自分の家に戻った。