家に着いてリビングの隅で靴を脱ぐ。
この部屋に玄関はなく、靴は床の上に置くことになっている。大家はフランス人とは思えないほどの几帳面なマダムで、部屋の中で靴を脱ぐ習慣のある日本人にしか部屋を貸さないらしい。
3人掛けの白いソファに腰を下ろした。机の上に置いてある朝飲んだペリエの緑のビンが目に留まる。
緑のガラス瓶は窓から射した光を受けて透け、真ん中でステンドグラスのような透明なグリーンの光を机の上に放ち、下にゆくにつれて色は濃く深くなっていく。
ぼんやり眺めていると、家の電話が鳴った。

「allo」(もしもし)
「oui, c’est Benois. qu’est ce qui s’est passe aujourdui? 」
(ブノワだけど、今日どうしたんだ?)

「Eh…., On parle Japonais」(なぁ・・・、日本語でいいか?)
フランス語を使いたくなかった。

「bien sur , ma pulle」(ああ、いいよ)

「どうしたんだ、待ち合わせに来ず、携帯もつながらない。何かあったのか?」

完璧に近い発音だ。しかも関西イントネーション。
語学を19歳から勉強し始めた僕は、第二言語を後天的にこのレベルにするまでの大変さを少しは理解できる。
そして広大な自然のもと、日本人がまだ誰も住んでないと思われるナントという田舎で生まれ育ったフランス人がなぜこんなに日本語がうまいのかと感心した。

「色々あってね・・・、急に出来た友達とパリの町で鬼ごっこをしてみたくなったんだよ。そのせいで携帯が熟れた果実になって使い物にならなくなった。」

起こった出来事を印象に残った一文にまとめてみる。
彼は少し考えているようだった。

「見た目より人付き合いが悪い方じゃないと思ってたけど、そこまでとは知らなかったな。」

彼はそれが事実と捉えずに、まじめにその光景を頭に思い浮かべているのだろう。

 

「それより、今夜家に来ないか?日本からヘアメイクをしている子がいて、
君に会いたがってる。疲れているようだから、あまり無理にとは言わないけど・・・。」

「今日はやめとく。今夜礼を言わなければいけない相手がいるんだ。」

名前も知らない初対面の相手を殴る女の子を頭に浮かべた。

「そうか、わかった。家の電話はまだ熟れてないんだな?」

「あぁ、熟れていない。熟れることはないと思う。」

しばらく黙った。

「今日は呼吸も出来なくなる竜巻に巻き込まれて散乱しているんだ。
落ち着いたらちゃんと話すし連絡する」

「わかった。また連絡するよ。Ciao, a plus(じゃあまたな)」

「ありがとう。」

彼は理由を聞かずに電話を切ってくれた。電話なんて熟れるはずがない。
そして着替えずにベッドに倒れ込んだ。
すごく疲れてしまった。自然とまぶたが重たくなる。少しの間だけ目をつむる。

またあの声が聞こえる。

「時計の進み方が違うんだ」

頭の中で何かがしゃべっている。

「時間というものは一定のリズムで進むが、個人の中でそれは正しくはない。徐々に時計の針のスピードは落ちて、針が上に進むだけのエネルギーがなくなり、
何度も上には進もうと、しばらくそれを繰り返すんだ。今君はそんな状況に居て、この先もそれは君を待っている。そして君は外の世界の時間を知った時、初めて思い知るのさ。」

そんなことを誰かに言われているうちに、また深く意識は薄れてしまう。
どろどろに溶けていくような睡魔だ。
しばらくうつらうつらとしていると、突然聞きなれないベルの音がする。
カバンの中だ。僕は目をつむったまま横に置いてあるカバンに手を突っ込み、その音の鳴るモノを手探りで探す。
そしてボタンのついた音の鳴るモノを持ち上げ、グリーンのボタンを押す。意識がまだはっきりとしない中に聞き覚えのある女の声がした。

「少しは元気になったかしら?」アルトを少し高くしたような声がする。

「あぁ、もう大丈夫だよ」と答える。

僕の特技は寝起きに寝起きと悟られないことだ。

「そう。ところで今夜19時にバスティーユに来れる?」

「行けるよ。」 

「あたしの用が早くすめば19時には着けると思うの。何かあったら連絡するわ。じゃあ後でね。」

そう言い切ると通話は糸が切れたかのように急にぷつりと切れてしまった。

「はや・・・。」

僕は時計を見て今が18時だと確認する。
それと同時に壁にかかった時計の針が上に向かって動いているのを見て、僕はシャワーを浴びた。右肘に水が当たるとしみる。
肘をあげて見てみると、火傷をしたかのように皮がめくれて白い皮膚が出ていた。
それを見つめることは今日の出来事を確認するだけで、僕は痛い部分がしみないよう、なるべく泡がつかないように続きを洗った。

シャワーから出てバスタオルで体を拭き、ボクサーショーツ以外何も身につけないまま冷蔵庫を開ける。
グリーンの透明なビンを手に取ってその口元をひねる。「シュパッ」という気持ちのいい音がした。僕はそれに口をつけて底を持ち上げ喉に一気に流し込む。

「ゴクリ」という音とともに冷たい波が食道から胃にかけて押し寄せ、体の中心に染み込んでいくのを感じる。

外からは車のクラクションが聞こえ、外の世界は自分と関係のない声や音で溢れている。
僕はいつものようにその音を聴きながら白いソファに腰を下ろして目をつむる。
そうしていると次第に音は一つにまとまっていく。そして自分の呼吸の音に耳を澄ませる。

いつもクリアにしておくことが大切なんだ。起こりうるあらゆる出来事に左右されず対処できる準備をしておかなければならない。
PCのように淡々と。
自分にコマンドを与え、一定のスピードを狂わせず確実にこなすことが出来るように。
「一定のスピード」、それが大切なんだ。
その方法こそが僕が静かに生きていく術だということを、少なからず22年間のうちに学んできた。時計を目にする。18時30分。
僕は今日身に付けた汚れたミリタリージャケットを洗濯機の中に投げ込み、黒のVネックの7部丈、ブルーの胸もとに両サイドに縦のジッパーがついたダウンジャケットを着た。
夢の続きから現実に上手くシフトするように自分を運転する。
夜は冷えるけどダウンジャケットの真ん中のジッパーは上げないまま、首には船を停めておくためのイカリのデザインをした銀のネックレスをかける。
イカリには2匹のイルカとサメみたいな魚が二頭が絡みついている。
僕はその二頭の、相反しているものが共存している矛盾が気に入って買ったのだ。
彼らは捕食する側なのか、される側なのか・・・。
そんなことを思いながら、18時40分。

僕はまた先っぽの丸い茶色い革靴を履いて玄関を開け、いつものように階段を1つ飛ばして降り、肩で無駄に重いドアを開けBastille(バスティーユ)に向かう。
opera(オペラ)駅まで歩き、地下鉄を使う。切符を一枚買って改札を抜ける。
駅の通路には浮浪者が寒さから逃れるために身を置き、行きかう通行人に小銭をもらうために壁際に座り、

「s’il vou plait , s’il vous plait」(めぐんでください。)と声を大にして叫んでいる。

彼らの顔はよく日焼けをしていて、葡萄酒と尿の混ざった鼻を突く匂いがする。
彼らの足元を目を合わせずに通り過ぎて地下鉄7番線に乗り、Chatlet(シャトレ)の駅で一番線に乗り換えてBastilleまで行く。
Bastilleの駅についてドアが開く。19時2分。駅を出るとすぐに電話が鳴った。

「どこのカフェにいるの?あたしは今終わったわ。今レアルだから、あと15分くらいで着くと思う。濃いエスプレッソでも飲んでゆっくりしてて。」

それだけ伝えるとまたぷつりと電話は切れた。もう慣れてしまった。
僕は歩きながら携帯をカバンのサイドポケットにしまい、階段を上りきると正面にあるカフェが目に入った。
その前を通り過ぎ、自分がいつも行く二階建てのJAZZとHOUSEが流れるBARに入った。

二回の席に上がり階段近くの適当な席についた。
目上の人に会うわけでもないので奥の席に悠然と腰を下ろし、貸し出された携帯を机の上に置いた。

しばらくするとウェイターがやってきて、注文を聞いてくる。

白ビールを頼んだ。薄い苦い果物みたいな味のするビールだ。
ビールの好みは自分の趣味と共通している気がする。ただ苦いだけではダメなんだ。苦みの消えていく最中に残る感覚が僕の自由な想像を助けてくれる。
きっと胸元のイカリについた2頭は草を食べるわけでもなく、肉を食べるわけでもない。
少しだけ甘くて苦いプランクトンを食しているのだろう。海水を飲みこんでいるうちにその甘さや苦みを一緒に味わっているのだろう。
そしてその2頭はもうこの世にはいない、絶滅した生き物なのだ。
そんなことを想像しているうちに電話が鳴った。

「今Bastilleに着いたわ。どこにいるの?」

「カフェだよ。出てすぐの赤い屋根のカフェが見える?」

「ええ、見えるわ。あなたはそこにいるの?」

「いや、そこにはいない。そこを右手にして通り過ぎて通りを渡らずに右に曲がり、すぐ右手に細い路地がある。そこにある、chouchou(シュシュ)というBarにいる。」

「わかったわ。今行く。」

ぷつりと切れる。どうやら電話を切るタイミングは彼女の理解し終わった合図らしい。
しばらくして彼女は階段を上がり席についた。
僕の目の前の椅子に座り、

白ビール飲んでるの?あたしも一口欲しい。」

と言って現れるなり、返事をする前に僕のビールをゴクゴクとおいしそうに飲んだ。
そして隣を通りかかったウェイターに流暢なフランス語で僕と同じものを頼んだ。

「oui ,mademoiselle」(わかりました。)と笑顔を残してウェイターは裏に消えていった。

「やっぱり仕事後のお酒はおいしいわ。アサヒビールが恋しいわね。仕事の後には生ビールよ。」

彼女はオヤジ臭い事を綺麗な笑顔で話す。今日会った時の無機質でけだるい感じはない。
しかし女の子がデコレーションされたパフェを食べる前のような輝きもない。
なんというか、そう、マラソン選手が長い距離を走り終えた後、インタビューに答えるような輝きがあった。
日本で女の子を食事に誘って甘いデザートを頼んでもその笑顔を見れないだろう。

「ここは居酒屋じゃないよ。」 僕は彼女に尋ねてみる。

「そうね、ここは日本ではなくフランスなのよね。カミュがペストを書いた国なの。だけどカミュはフランス人ではないし、ここはあなたの言うメトロポリタンなの。探し物をしている色んな人が来る場所なの。集まった人達がこの場所を作り上げるわ。アーティストの集まる場所なのよ。」

彼女は笑顔で応える。彼女が僕に対してムキにならないのを意外に思った。

「君はここに何をしにきたの?」僕は聞いてみた。

「あなたと話をしに来てるわ。」

「いや、そうじゃなく・・・。」意味の重なる違う文章を探す。

「わかってるわよ。あなたのことは何て呼べばいいかしら?話はその後よ。」

言葉に詰まってしまい、目の奥に意識が入っていく。

「名前なんてどうだっていいんじゃないかな。三毛猫だからミケだって、鈴のような鳴き声という理由からタマだって、それは記しのようなものに過ぎないんだ。
単に名前は区別するための記号でしかないんだ。それぞれの名前には意味があるみたいだけど、中にはその意味通りに人生を全うする人もいるし、そうでない人もいる。
僕が思うに名前は、ただ一方通行な想いの首輪をつけられている気がするんだ。」

頭の想像を急に話し出してしまった自分に驚き、一呼吸おいて自分の位置を元に戻して続きを話す。

「日野悠斗だよ。」 ゆっくりと声に出して答えた。

すると彼女は微笑みながら、

「名前の意味、記号・・・。」
彼女は何か考えてる様子だった。

「あなたの名前、なんだか楽しそうね。ユートピアが名前の由来?」

彼女はこの質問を本気でしているのだろう。

僕の名前を親から「実はね、名前をつけに役場に行く前に酔ったお父さんが書き変えたのよ・・・。あなたの名前はユートピアから取ったの。素敵でしょ?」
と母に申し訳なさそうに笑う母に言われる事を想像した。

「違うと思う。君は?」と返す。

「あたしは大川 遥(はるか)。名前の意味は聞いてないわ。東京の美大に行ってたんだけど、半年前につまんないから辞めてきちゃった。」

彼女は落ち着いたのか、さっきよりゆっくり話しだした。

「なんで辞めたかって言うとね・・・。うーん。理由はこうよ。
あたしは東京で一人暮らしをしていて、インスタント食品に囲まれた生活をしていたの。それであたし思ったの。
いつか日曜の昼間からラタトゥーユとビールを飲みながらテレビをつけて、何も気にせずに時間を好きに使うって。今はそれを実行中なの。
ここに来たはっきりした理由なんてないわ。自分の行動に意味を付けるのは好きじゃないし、そんなことに意味を見いだせないの。
みんなが大学に行かなきゃいけないと思うと同じくらいの強さで意味を感じられないの。あたしはこんな感じ。あなたはどうなの?」

僕は一瞬考えたが、言うべきことは決まっていた。
しかし真っ直ぐな相手に対して本当のこと以外は言うべきではないとストップがかかり、迷ってしまう。
何も残らないなら、言わないのと同じだから。でもその代わりに、

「僕はある時旅がしたくなったんだ。日本ではない遠い国に行って、その国の固いパンをかじりたくて。
そしてかじりながら思うんだ。これは固い、と。そして新潟産コシヒカリの白い柔らかく光るご飯とふわふわの厚焼き卵のことを思い出すんだ。
それに、24時間買い物のできるドラッグストアやドリンクバーを支給してくれるデニーズに感謝をするんだ。大阪にあるパン屋に行ってパンをかじった時そう思った。いろんな堅さを探しに行こう、と。」

と応えた。ウェイターが白ビールを彼女に持ってきた。
彼女は机に置かれたグラスに軽く口を付けながら話し始めた。

「ふうん・・・。やっぱりあなたって変わってるわ。」

熱が冷めたように話す。

「でも少なからずともあなたは今日、あたしの目の前でフランス人と必死の形相で走って来て道の上を転がったのよ。衝撃的よ。普通じゃないわ。それなのにその後ケロッとして、まるでそれも予定が空いてれば別にいいですよ、みたいな顔してた。」

会話の流れを止めない一定のリズムで返す。

「起こることに対して多少の積極性を持って受け入れようとしているだけだよ。
いや、起こってしまった事と言ったほうがいいのかも。
例えばトイレに入ってから紙が無いことに気付いたとする。そしてトイレから紙を買ってきてくれと誰かに頼んだら、コピー用紙を持ってきてくれた。紙違いだ。
だから僕はペンを持ってきてもらってコピー用紙にトイレのイラストと、
ロール状の紙の絵を描く。そしてそれを渡す。他の部族と暮らすこの社会の中では必ず予期しないことは起こるし、その時にどう相手に伝えて、どう理解してもらうのかが大切なんだ。」

「うわ、やっぱり変。変わってる。」

彼女は笑いながら応えてくれる。

そして背もたれに背中をペタリとつけてこっちを見ている。
僕は初めて会った相手をいきなり殴る同郷の日本人の女の子に変わっていると、一日に何度も言われた。
しかしその類の言葉を言われる度に、本当は根本的には自分が正常だと思ってしまう。
僕の考える正常とは、ニュートラルな立ち位置であり、真っ直ぐに綺麗に上に向かって伸びていることだ。それは話し方でも在り、姿勢の話だ。
何かに価値を見出そうとして強く信じてしまうこと自体、自分の持つ価値観が堅斜めに傾き、その傾きが他のものとぶつかり合ってしまう。
その光景を目にする度、弱い方が傷つくだけだった。僕はそんなものは自分だけでいいと思ったし、そこにはあまり目を向けないように決めていた。

「僕は変わってない。」

呟くように、下を向いてそう言った僕の顔を彼女はじっと見つめていた。
彼女の深い、黒く光る瞳を見つめ返す。不安にさせる瞳だ。

「ねぇ、歩きたいわ。」

彼女はそう言うと彼女は自分のコートと鞄を手に取って階段を降り始めた。
その流れに対応出来ずその姿を眺めてしまう。
あわてて席を立ち、ウェイターに60フランを渡し、お釣りは要らないと伝え、彼女の後を追った。
外に出ると狭い路地にはたくさんのバーやカフェ、レストランがあり、
こんなに寒いのに外のテラスではコートを着てワインを飲んでいる人達がたくさんいた。

そしてある若者達はハイネケンの缶ビールを手に、コートも着ずたばこを吸いながら店の前で立ちながら談笑していた。
僕は彼女に追いついて右隣を歩こうとしたが、彼女はこちらを見ずに僕の右側に移動した。

「あたしはこっちなの。」

それだけ言ってまっすぐ前を見て歩きだした。彼女の目線はちょうど僕の右肩辺りにある。
僕の身長はどちらかというと高いほうで、おそらく彼女は165センチくらいあるだろう。
その通りを突き当りまで歩いて右に折れ、着た場所に一周して戻るように駅のロータリーでタクシーを拾った。
窓の開いたタクシーの運転手に声を掛け、彼女はドアを開け、

「musee de louvre ,s’il vous plait」(ルーブル美術館まで)

とだけ伝え運転手もまた、

「d’accord(わかった)」

とだけ答え、彼女はシートに体を入れ、僕もそれに続いた。
運転手も含め僕らは車の中では何も話さなかった。車内には陽気なラジオ番組が流れていた。
運転手はそれを聴いて、知っている曲が流れると鼻歌を歌った。
僕は彼女のほうを向かないように外の景色を見ていた。
夜の街は街頭が辺りをを照らし、行き交う人々をぼんやりと映している。
ぼんやりと照らされる幸せそうな人や、道に植えられた街路樹、アンティークなアパートの花が槍のように咲いたような窓の格子を眺めていた。
そしてブティックのガラスの中に映る赤いコートが目に留まり、それをもし遥が着たらどんなに似合うだろうと想像する。
彼女の細いウェストや、胸の膨らみはそのコートの上からでも十分わかるだろう。
そんなことを想像してしまい、必死にかき消す。
そしてタクシーはルーブル前に停まり、料金を払い外に出る。

遥は両足を丁寧にそろえて地面にブーツのかかとをつけて外に出た。
僕もその後に続いて外に出る。
外は頬を凍らすかのように冷たく、耳は冷凍餃子になるかもしれないと思った。
何も混ざっていない空気が広がっている。

「あの橋まで歩きましょう。」

彼女はそう言うと、僕らは遠く左手にみえる橋に向かって歩き出した。
二人とも何も話さなかった。

僕は彼女の1メートル後ろを歩く。
彼女の後姿は川沿いに映る古い教会や古い壁を何度も舗装したアパート、川の端に停まっている船の絵に、本来その絵に描かれたように彼女は見事に溶け込んでいた。

僕はこの景色を見たことがある。一人で帰る途中、何も思えなくなる時のことを思い出す。
どこにも行けないと思った、自分の居場所はどこにもないと感じた。
どうしても先に進めないという時があるが来たら黙って受け入れるしかない。
僕は少し距離を置いて歩いた。

そしてセーヌ川の橋の入り口に入り、彼女は黙って橋を渡り始める。
僕は彼女の後をついて行く。
橋の真ん中辺りまで進んだ時、彼女の歩く速さは徐々に遅くなり、立ち止まった。
そしてじっと橋から見える景色を眺めている。
僕は彼女の横に並び、彼女は話し始める。

「ねぇ、初めて会った人は気にするわ。あたしが今いくつで、何をしにフランスに来たのか、どうしてフランスなのか?って。」

沈黙の後、彼女はまた話し始める。

「そんなの関係ないじゃない。それを聞くことに何の意味があるのかしら。そんなことに応えることに興味なんて無いの。どうでもいいわ、他人なんて・・・。」

声が泣きそうだった。

「誰だってみんなそう思うよ。人の本当に興味がないからこそ聞いておくんだ。」

彼女は僕を見て、懸命な表情で話しだす。

「どういうこと?興味もなくその人の目的を聞くなんて、そんなの失礼じゃない?」

不安そうに怒る表情と何かを訴えたい時を混ぜた顔をしている。

夜の空気に冷えてしまった彼女の横顔が目の前にある。

「君は間違ってない。理由なんて本当は誰にも解らないし、それに君に聞く人も本当が見えないから質問をするんだ。感傷的になっているだけさ。」

僕は機械的に話す癖がある。昔の恋人に、本当はそう思ってないんでしょ?と、何度も言われた。その度にうまくいかなかった。
今なら解るが、それは多分僕が本当の意味で人を理解して受け止めようとしていなかったからだろう。

 

「あなたには何もわからないわ。」

彼女の言葉に僕は答えられない。胸を締め付けられながら僕は答える。

「そうなのかもしれない。でも、僕は君を解ろうとするよ。」

沈黙が流れ、その時僕の口から何故そんな事を言ってしまったのか解らなかった。

「あなたって、真面目なのね。」

街灯の光が彼女を笑う顔を照らしていた。泣いていたのかもしれない。

「あなたと居るとなんだか不思議よ。あたしの周りにいる空気と話してるみたい。」

彼女は涙ぐんだ目でクスクスと話す。
もし僕が空気だったらどんなに良かった事か。何にも逆らわずに色んなものを温めたり冷やしたり、自分を通さずにそれが出来る。

「僕はただ自分の想いに素直に生きたいんだ。それ以外に何もしない。」

「うん。あなたってそんな感じ。空気っぽい。」

「それ、ひどいこと言ってるって気付いてる?」

無理やり作った笑顔で彼女に聞いてみた。

「君の言う空気って何?」

「そうね。何もないの。ちゃんとそこにいるのよ。けど、うまく言えない。心に入ってにスッと消えちゃうの。」

「ゆうとの名前の由来は幽霊からきてるしね。」

僕はわざと真面目な顔で話す。彼女は僕の顔を見顔で見つめ、プッと吹きだして笑っている。

「僕は今日きみと初めて会ったけど、初めてじゃない気がする。
僕が言いたいのは、君を知っている気がするって言う、なんていうか・・・。」

「ナンパする時のあなたのパターン?じゃあ、聞くけど、あなたは私の何を知っているの?」

僕は下を向いて考えた。うまく返せない。彼女は僕の顔を見て事務的な微笑みをこちらに向け、

「今日は楽しかったわ。ありがとう。」

と言いきった。会話に刃物を入れられたようだ。

「ねぇ、あたしの携帯持ってる?」

僕は黙って携帯を差し出した。彼女はそれを受け取ると、

「ゆうと君、今度の日曜にこの橋に来てほしいの。ここに。今度はお昼にね。一緒に行ってほしい場所があるんだけど、いい?」

子犬がお願いするみたいな瞳に変わっている。

「もちろん。」

そう答えると彼女は喜んだようで、

「これ、渡しておくわ。」

と言って、彼女は1枚の名刺を僕に差し出した。そこには、beux arts Ookawa Harouka 06-XXXX-XXXX  rue d’antin 6と書いてある。

「電話してね。待ってるわ」

彼女はくるりと後ろを向き、そして綺麗な後ろ姿を見せて歩き始めた。彼女は一度だけ振り返り、こっちに向かって笑いながら手を振る。

「良く分からないや。」

僕はその場に取り残されないよう苦笑いで彼女に手を振った。
彼女が通りのタクシー乗り場でタクシーを捕まえて走り去るのを、僕はしばらく橋の手すりにもたれて、彼女のタクシーが見えなくなるの眺めていた。

その後、橋の入り口まで戻って自分もタクシーを拾い、家まで帰った。



上着をソファに脱ぎ捨て、グラスを一つ洗い、その中に冷蔵庫から取ったジンを注ぐ。
ライムを輪切りにしてジンの中に入れ、残りはカットして皿の上に置いた。

グラスの中にライムを入れた後、急にシャワーを浴びようと思った。
熱いシャワーが落ち着かない自分を流してくれるはず。バスルームにカットしたライムを持って来てしまった。
そのままシャワールームでライムを齧り、頭から熱いシャワーを浴び、しばらく目を瞑った。余ったライムの皮は石鹸の横に置いた。

バスルームから出て冷蔵庫から大きくて丸い氷を取ってグラスに入れ、裸のままソファに座る。
グラスのライムの果肉をマドラーで潰しながら、テーブルの上にあるカミュの戯曲、カリギュラを適当なページを開いて読む。
抜けるようなジントニックとライムを齧りながら文字を頭に入れていくが頭に入ってこない。

「戯曲 カリギュラ」は暴君として知られるローマ皇帝カリギュラを題材にした、不条理をテーマにした作品だ。

ある日家に帰ると、飼っていた犬がベッドの端が食いちぎり、中の綿が床に広がっていたのを思い出した。

お腹がすいたので、冷蔵庫の上のバゲットを手に取って切れ目を入れて開き、ナイフの刃を上手に返しながらバターを丁寧に塗りハムを挟んで食べた。
パリパリと頭の中に音が響く。

自分の穿いていたデニムのポケットから彼女にもらった名刺を手に取り出した。
それを眺めながら彼女のことを考える。他人から自分が来た理由を聞かれてムキになる彼女には人の視線がどのように差さっているのだろう?
またライムをかじり酸味が脳みそを撫でる。

何週間か前にセーヌ川沿いを歩いている時、笑っている人や泣いてる人を見た。
家族連れと別れそうなカップルだ。
僕はグラスを持ってソファから立ち上がり、窓を開けた。下の道路には人は居なかった。

誰も居ない月夜に黒猫が月の光をうらめしく鳴く姿を想像した。
この時間の夜は自分の空洞と重なる気がする。星が見えて安心するのは自分の闇の中に光を願うからで、グラスにはライムとジンの香る水が丸くて大きな氷を溶かしている。
僕は心地良い酔いを感じていた。

月夜の下の黒猫が話しだす。

「夜も太陽は関係なく君を照らす。それでいいじゃないか。人の目に映って気づくんだ。君と違う音を聴けるようになるまで耳を澄ますだけでいい。僕のお腹が空かさないようにね。」

それだけ言って、猫はくるりと後ろを向き、左右に尻尾をゆっくりと振りながら歩いていき消えた。

ソファに横になりながら「僕らは人に映るのかな?」と呟き、

「言葉が足りないんじゃない、まだそれを知らないんだから。」

と声がして、意識がソファにめり込んでいった。